333 【意外な3人】
「お疲れ様っすー! 高木さーん、一緒に帰りましょうかぁ?」
終業のチャイムが鳴り終わらないうちに、背後からちょっと間延びした声が飛んできた。
ちらりと振り返ると、案の定そこには武井の姿があった。にやけた顔で手を振りながら、鞄を肩にかけて立っている。
「帰りますかぁ~?」
また同じセリフを繰り返し、なぜか当然のように謙の席の隣まで近づいてくる。
「ああ……もう帰るつもりだよ」
そう答えながらも、謙は心の中で小さく首を傾げていた。
(……なんでこんなに懐かれてるんだ、俺)
別に嫌なわけじゃない。けれど、武井がここまで自分に絡んでくる理由がまったくわからなかった。
特別仲良くした覚えもないし、プライベートで一緒に出かけたこともない。
それなのに、武井はちょくちょく声をかけてくる。昼休みも、退勤時も、まるで“相棒”か何かのように。
「じゃ、途中まで付き合いますね~」
武井は満足そうにニヤリと笑って、謙の返事を待たずに自分の荷物を抱え直す。
(……付き合うとは言ってないんだけどな)
内心そんなツッコミをしながらも、謙は静かに机の上を片づけ、鞄のチャックを閉めて立ち上がった。
「じゃあ、高木さん、レッツゴーっすよ! エレベーター、混んでないといいなぁ」
武井はすでに並んで歩くつもりで横に立っていて、謙もそれに合わせるように歩き出す。
二人の足音が廊下に静かに響いた。
謙は苦笑しながら、それでもなんだかんだでこの他愛ないやり取りに、少しだけ心がほぐれていくのを感じていた。
エレベーターに乗り込み、扉がゆっくりと閉まる。二人きりの静かな空間に、かすかに機械のモーター音が響いていた。
そのタイミングで謙はふと思い出し、隣に立つ武井に声をかけた。
「そうだ。明日、また15時に外科行くから。念のため、よろしくな」
「えっ、どこか怪我されてたんですか?」
武井が意外そうな顔で振り向いた。
その反応を見て、謙は少しだけ眉を動かした。そういえば怪我のことは佐藤課長にだけ報告していて、他の同僚には何も言っていなかったことに気がつく。
(まぁ、心配かけるようなことでもないしな)
そう思い、軽く説明することにした。
「この前な、ちょっと転んで。腕を切っちまってさ。それで何針か縫ったんだ。明日、抜糸ってだけ。たいしたことないんだけど、手間でな」
「えぇっ、でも縫うって結構じゃないですか! 高木さん、ちゃんと気をつけてくださいよ」
武井は素直に心配してくれているようで、少し大げさに眉を下げながら、謙の腕をちらっと見た。
「大丈夫、大丈夫。もう痛くもないし、明日で終わりだよ」
謙が笑ってそう答えると、武井も安心したのか「そっかぁ」と頷きながら、少し肩の力を抜いた。
そんな何気ない会話をしているうちに、エレベーターが静かに一階へ到着した。
チン、と軽い音とともに扉が開き、ビルのロビーに出た瞬間――
すぐ隣のエレベーターから、別の人たちがちょうど降りてくるのが目に入った。
その中に、一人の女性がいた。
謙はなんとなく視線を向けたが、彼女の視線がはっきりとこちらに向いているのに気づき、ふと足を止めた。
(……誰だ?)
顔には見覚えがない。けれど、彼女はまっすぐこちらに近づいてきた。
足取りはためらいのないもので、謙のすぐ前で立ち止まると、にこやかな表情を浮かべて口を開いた。
「お疲れさまです。……今、退勤ですか?」
唐突な言葉に、謙は戸惑いながらも思わず相手の顔をまじまじと見つめた。
どこかで会ったような、でも思い出せない。仕事関係か、それとも――
武井も隣で、少し驚いたように女性の顔を見ていた。
謙の中にわずかに緊張が走る。言葉を返すにも、まずは相手が誰かを思い出さなければならない――そんな微妙な空気が、その場に静かに流れていた。
「高木さん、私ですよ」
女性の声が、まっすぐに俺を呼んだ。
「えぇ……?」
思わず顔をしかめて見つめる。どこかで見たような気もするが、まったく思い出せない。けれど、その女性は微笑みながら続けた。
「看護師の鈴木ですって」
「……えっ!?」
思わず声が裏返った。
え、嘘だろ?
俺の頭の中にさっきの外科での記憶が一瞬で蘇る。
白衣の下にきちんと髪をまとめ、キャップをかぶってテキパキと動いていたショートカットに見えた看護師――
その姿と、今目の前にいる、ロングヘアをゆるく下ろし、落ち着いた服装で大人っぽい雰囲気をまとった女性が、どうしても一致しない。
「そんなにびっくりしないでくださいよぉ〜」
鈴木さんは少し照れくさそうに、でも楽しそうに笑った。
「仕事中は髪を後ろでまとめてキャップをかぶってるから、全然印象違いますよね。普段はこんな感じなんです」
たしかに、言われてみれば……顔立ちは同じだ。けれど髪型ひとつでこうも雰囲気が変わるものなのか。
さっきまで、どこか幼く見えていた彼女が、今はずっと大人びて見える。落ち着いた立ち居振る舞いにも、どこかドキリとさせられた。
俺は返す言葉を失ってしまったまま、ただ呆然と彼女を見つめていた。
鈴木さんはそんな俺の様子を面白そうに見つめながら、くすくすと笑っていた。
「あれぇ〜? 高木さんって、他の現場の人ともそんなに交流あったんですかぁ?」
エレベーターを出た直後、隣を歩く武井が、わざとらしく眉をひそめながら俺の顔を覗き込んできた。
その目は明らかに疑いの色を含んでいた。
「ち、違うよ。鈴木さんは、俺が事故で入院してた時に担当してくれてた看護師さんなんだ。ほんとに色々とお世話になったんだよ」
俺は少し慌てながら説明する。まさかこんなタイミングで遭遇して、こんな誤解を生むとは思ってもいなかった。
「で、たまたま今日、抜糸のことで外科に行ったらさ、鈴木さんが配置換えで外科に移ってたってだけ。わかったか?」
「へぇ〜……」
武井はあいまいにうなずきながら、じっと俺と鈴木さんの顔を見比べてくる。
「でもさぁ……なんか、めちゃくちゃ仲良さそうに見えたけどなぁ〜? あの感じ、どう見ても……」
疑いの目は消えない。しまった、言えば言うほど泥沼になりそうだ。
そのときだった。鈴木さんが一歩前に出て、きっぱりとした口調で言った。
「違いますよ。高木さんの言ってることは全部本当です。たしかに私は看護師として担当してましたけど、それだけです」
彼女はふっと笑って、武井のほうを見て付け加える。
「それに、高木さんにはとっても優しくて、すごく綺麗な彼女さんがいらっしゃいますから。変な想像はやめてくださいね?」
「……ねぇ、高木さん?」
その視線がこちらに向けられ、俺は思わず苦笑いで応えた。
「そ、そう。本当そうだからな、武井。勝手な想像すんなって」
だけど――言い訳すればするほど、なんか嘘っぽくなるのはなぜだ。自分でも必死さがにじみ出てるのが分かって、どこか居心地が悪かった。
すると鈴木さんがくすくす笑いながら、さらに一言。
「それに、私にもちゃんと彼氏いますから。ほんと、変な噂だけは立てないでくださいね?」
その瞬間、武井がシュンと肩を落として深々と頭を下げた。
「す、すみませんでした……疑って……」
真剣な表情が逆におかしくて、俺と鈴木さんは顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。
「な、なんだよ武井……」
「ほんと真面目なんだからぁ〜」
そんな笑い声が、夕方のロビーに優しく響いていた。
「鈴木さんって、どっち方面なんですか?」
ふとした会話の流れで俺がそう尋ねると、鈴木さんは少し考えるような表情をしてから答えた。
「池袋方面ですね」
「お、それなら一緒だ。よかったら……一緒に帰りませんか?」
少し照れ隠しのように笑ってそう言うと、隣にいた武井がすかさず反応した。
なんとも言えない微妙な顔をして、俺たちを交互に見ながらぼそっとつぶやく。
「……俺、どうせ川越方面なんで。駅まではご一緒しますけどね」
その声にはほんのりいじけたようなトーンが混じっていて、聞いていた鈴木さんがふっと吹き出した。
「……武井さん、であってますか?」
「……あぁ」
武井は真面目な顔でうなずいた。その表情を見た瞬間、鈴木さんがパッと笑顔になり、からかうように言った。
「武井さんって……マジでウケる! 絶対モテますよね? その感じ、絶対ウケると思うんだけどな〜!」
突然の褒め言葉に武井は明らかに面食らった様子で、目を丸くしてから首をぶんぶん横に振る。
「いえ……全然モテません。ほんとに。未だに独身ですし」
妙に真剣に否定するその姿が、またなんだかおかしくて。
鈴木さんは肩を揺らして笑いながら、軽い調子で言った。
「じゃあ、今度合コンしましょうか? 私、友達呼びますよ!」
すると武井は、今度は一転して真顔になり――でもその目はどこか必死で――
「……お願いします」
一言、心からの願いのように呟いた。
俺はそんなやり取りを横目で見ながら、ちょっとだけ呆れた顔で言った。
「……じゃあ、駅行くぞぉ。喋ってないで歩け」
なんだかんだ言いつつ、3人で歩き始める。
並んで歩く帰り道。会話が途切れても、不思議と気まずさはない。
むしろ――この空気はなんだろう。気の合う仲間というか、それとも……なんとも言えない温度のあう関係。




