331 【少しだけ、心がほどけた午後】
もうダメだ――。
どれだけ考えても、答えなんて出やしない。
それは、頭のどこかで分かっていた。
なのに俺は、打ち込み作業の手を動かしながらも、心の中ではずっと杉田のことをぐるぐると考え続けていた。
「もしかしたらこうじゃないか」「いや、あいつなら……」
そんな想像ばかりが、終わりのない迷路のように巡ってくる。
だがそのどれもが、ただの憶測でしかなかった。
情報も証拠もないままに思考を重ねても、結局は徒労に終わる。
そう――良い方向に向かうはずがないことくらい、わかっているのに。
「……はぁ」
深く、静かにため息をひとつ。
モニターの画面がぼやけて見えるほどに、思考が重くのしかかっていた。
そんなとき、ふと時計に目をやった。
「……やばい」
もう少しで15時になる。外科に行く約束の時間だ。
思考の渦から一気に現実に引き戻された俺は、椅子から立ち上がった。
「ちょっと、外科行ってきます!」
近くの同僚にひと言だけ告げると、胸ポケットに携帯を滑り込ませ、急ぎ足で人事部の部屋を飛び出した。
エレベーターが来るのを待つ時間さえもどかしく感じるほどに、どこか心がざわついていた。
気がつけば、悩みに悩んでいたはずの俺の足は、もう外科に向かって動き出していた。
午後3時ちょうど。
謙は時間ぴったりに外科の受付に足を運んだ。
病院の廊下には、昼下がり特有の静けさと少しばかりの慌ただしさが混ざり合い、どこか懐かしい感覚を呼び起こさせる。
受付に近づこうとしたそのとき――
「高木さん……ですよね?」
不意に名前を呼ばれて、謙はハッとして立ち止まった。
声のほうに視線を向けると、そこにはどこか見覚えのある女性看護師が立っていた。
ぱっと花が咲いたような笑顔。
その目元の優しい雰囲気に、謙は一瞬にして思い出す。
「あ……あの時の……」
彼女の名札に目をやると、「鈴木」と書かれていた。
「鈴木さん……! 入院中は、本当にお世話になりました」
思わず、心からの感謝の気持ちをこめて頭を下げた。
鈴木さんは優しく微笑みながら、「覚えていてくださったんですね」と、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんです。あの時、毎日声をかけてもらって……鈴木さんの笑顔に、何度救われたか」
謙の言葉に、鈴木さんの頬がほんのり赤く染まる。
「そんなふうに言ってもらえると、私まで報われます。私、配置移動になって、今は外科のほうに来てるんです。まさか、こんなに早くまたお会いできるなんて」
ほんの少し、照れくさそうに、けれど嬉しさを隠せない様子で笑う鈴木さん。
謙も思わず笑顔になる。
「それにしても、彼女さんとのその後は……どうですか?」
鈴木さんの問いに、謙は一瞬言葉に詰まり、すぐに苦笑いで返した。
「そこは……まぁ、変わらずってところですね。いろいろ、難しいですけど」
「そうなんですね。でも……元気そうで、何よりです」
一瞬の間を挟んでから、鈴木さんはそう言って、また笑った。
再会したばかりなのに、どこか懐かしく、自然に会話が続く空気。
それは病院という場所にありながら、ほんのひととき、優しさで満たされた空間だった。
「では、診察室までご案内しますね」
鈴木さんはそう言うと、さりげなく謙の歩調に合わせながら、外来の奥へと歩き出した。
白衣の背中越しに漂う気配は、あの入院中に何度も見た、安心と信頼の象徴のようだった。
病院の廊下には、時折患者の話し声やスタッフの靴音が響いている。
けれど不思議と、鈴木さんと並んで歩いていると、その音すらも遠く感じるような穏やかな時間が流れていた。
「入院中、大変だったでしょう?」
歩きながら鈴木さんがふと尋ねてきた。
謙は小さく笑いながら答える。
「まぁ……正直、痛みよりも、自分が情けなかったですね。人に支えられてばっかりで」
「そんなふうには見えませんでしたよ。ちゃんとリハビリも頑張ってましたし。
高木さん、何も言わなくても我慢してる感じがして……逆にこっちが心配になっちゃうくらいでした」
鈴木さんはそう言って、懐かしそうに目をした。
謙は思わず照れくさくなり、目線を少しそらして天井を見上げた。
「いや、ただ格好つけてただけですよ。内心は泣きそうだった日もありましたから」
鈴木さんはくすっと笑ってから、足を止めて診察室の前を指差した。
「こちらです。先生にはもう伝えてあるので、少しお待ちくださいね」
「ありがとうございます。本当に……また鈴木さんに会えて良かったです」
謙が素直にそう言うと、鈴木さんの顔がふわりと優しくほころんだ。
「私もです。じゃあ、お呼びするまでここでお待ちくださいね」
そう言って、彼女は受付のほうへと静かに戻っていった。
静まり返った前室のベンチに腰を下ろし、謙はふぅっと小さく息をついた。
どこかでこわばっていた心が、ほんの少しだけほどけていた。




