329 【それぞれの生き様のかたち】
取調室を出た橘と篤志は、薄暗い廊下を並んで歩いていた。
蛍光灯の冷たい明かりが、二人の背を無言で照らす。
階段を上り、捜査本部のあるフロアに戻ると、すでに数人の刑事たちが室内で待ち構えていた。
室内には資料と写真が並ぶホワイトボード、机の上には乱雑に開かれた書類。
その中央、白髪混じりの中田1課長が腕を組みながら橘に目を向けた。
「……どうだった、橘」
橘は小さく頷くと、報告の前に静かに深呼吸をした。
一歩前へ出て、机の前に立ち、声を低く整える。
「枝智宏……自白しました。
改ざん、横領、そしてそれに至る経緯、すべてを。
ただ、今回の取り調べで見えてきたのは、単なる横領ではありませんでした」
中田が眉をひそめる。
室内にいる刑事たちの視線が、橘に集中する。
「枝は、かつて自分の弱みを杉田に握られました。金です。
家庭の事情で生活が苦しく、部長という立場にもかかわらず、つい杉田の甘い言葉に乗ってしまった。
最初はごく小さな金額の“立て替え”……その後、彼は帳簿の改ざんを許し、報酬として現金を受け取りました」
「……典型的な支配の構図だな」と中田がつぶやく。
橘は頷きながら、さらに続ける。
「そこから杉田の要求はエスカレートし、最終的には“ワカール製薬”の取引を丸ごと不正に改ざんさせた。
杉田はその後、ワカール製薬の役員に就任。
さらに、別のグループ――“総合グループ”との取引でも同様の改ざんを要求していたと枝は証言しています」
「ワカールの役員……繋がったな」と、後方で別の刑事が声を漏らした。
橘はホワイトボードに向かい、資料の一部を指しながら言った。
「さらに、ここからが本題です。
杉田は、社内の朝比奈麗子さんにしつこく接近し、拒絶されたことで異常な執着を見せた様子がある。
高木謙太郎さんがそれを止めに入ったことが、彼と杉田の間の確執を生み、その後――高木さんが杉田に襲われた事件へと繋がった」
中田が目を見開いた。
「それ、確実なのか?」
「はい。枝の証言です。直接襲撃の現場にはいなかったが、高木が返り討ちにしたという話は社内で広がっていた。
杉田はそれを機に退職。そして――ワカールの役員に就任していたのは、そのすぐ後です」
橘は一拍置き、そして静かに言葉を継ぐ。
「そして……最も重要な証言です。
杉田は、朝比奈さんの“父親”に対して、彼女が横領をしていると虚偽の電話をかけさせた。
会社を辞めさせるためです。
電話をかけたのは、枝本人。
しかし、朝比奈さんの父親は娘を信じ、断固拒否。
それから間もなくして――朝比奈さんの父親は、自宅で命を絶っています」
一瞬、室内が静まり返った。
誰もが言葉を失っていた。
記録係の若い刑事がペンを落とし、拾う音がやけに大きく響いた。
篤志が横で、小さく唾を飲んだ。
「……つまり、麗子さんの父親の自殺とされている件も……杉田の圧力が引き金で……」
橘は静かに頷いた。
「多分、麗子さんの父親も殺された可能性があります。枝が自殺なんて信じられないと証言していました.」
橘は捜査員、全体を見て、続けた.
「そうです。これがすべての始まりです。
枝の証言が正しければ――朝比奈麗子さんが事件に巻き込まれた理由、そしてその後の連鎖……
井上さん、丸山さんの殺害、湯川さんへの襲撃も、全てがこの圧力と利権の構図の中にある可能性が高い。
杉田を中心にした、歪んだ関係性が見えてきました」
中田は腕をほどき、苦い顔で小さくうなずいた。
「……クソ野郎だな。
死人に口なしってやつか……
朝比奈の親父さんの件、再調査かける必要があるな。
橘、すぐ報告書まとめてくれ。今夜中に捜査会議開く」
「了解しました」と橘は即座に答え、篤志もその横で大きく頷いた。
捜査は、ようやく核心に近づき始めていた。
しかし同時に、それは更なる闇の入口でもあることを、誰もが肌で感じていた。
篤志は思い出していた………。
枝が取調室を出ていったあと、静けさが部屋に残った。
扉が閉まる音の余韻が、どこか胸に刺さる。
「……すごい人ですね、橘さんは。」
隣で篤志が小さく呟いた。震えるような声だった。
初めて見る橘の背中が、彼にはどこか神々しくも映ったのかもしれない。
橘は無言のまま、机の上に置かれた枝の供述メモを一枚一枚見つめていた。
そこには、人の弱さ、葛藤、後悔、そして再出発への願いが滲んでいた。
「枝さんがあそこまで話してくれたのは、橘さんだったからですよ。俺……途中から、何度も泣きそうになりました。」
篤志の言葉に、橘は小さく笑った。
「そうか?」
「はい。橘さん、最後まで責めるような口調は一度もしなかった。…ああいうやり方、自分も覚えておきたいです。」
橘は少しだけ視線を落とし、深く息をついた。
「人間は誰だって、間違える。特に家族とか、生活がかかってるときはな。大事なのは、その後なんだよ。どう生き直すか。そこに俺たちは手を差し伸べるべきだ。」
その言葉には、ただの刑事の哲学ではなく、橘という男の生き様が詰まっていた。
そしてもうひとつ――
そんな橘を篤志は横で見ていた。
橘は何か遠くを見て考えている様な感じがした
橘には今、言えないことがあった。だが、それは彼の中で確かな確信として形になっていた。
(謙……お前はあの時、本気だったんだな。)
あの朝比奈麗子の話を、香から聞いたときのことを思い出していた。
奴の事を思えば、言葉など要らなかった。
どこまでもまっすぐで、愚直で、誰よりも人を信じていた男が、本気で誰かを想っていた。
それが、謙だった。
だが、まだそれを語るには早すぎる。
事件は、まだすべてを語っていない。
謎は、まだ深く静かに眠っている。
橘は軽く背伸びをした。
「さて、戻るぞ。まだやることは山ほどある。」
「はい!」
篤志が力強く頷いたその目には、尊敬と、憧れと、そして少しの覚悟が宿っていた。
橘の背中を、彼はこれから何度も追いかけることになるだろう。
だがその時、彼はまだ知らなかった。
この事件が、彼自身の生き方、人生までも大きく変えていくことを――。
(静かに時は動き始めていた。)




