328 【 見て見ぬふりの代償】
橘は一呼吸おいてから、静かに尋ねた。
「枝さん……それから、朝比奈さんはどうしていたんですか?」
その問いかけに、枝はしばらく黙ったまま俯いていた。
やがて、どこか遠くを見つめるようにしながら、ポツリと口を開いた。
「……彼女は、杉田が辞めた後も、変わらず勤務を続けていました。
まるで何事もなかったかのように、毎日同じ時間に出社し、黙々と自分の仕事をこなしていたんです。
でも……気づいていたと思います。何かがおかしいって」
橘と篤志が静かに耳を傾ける中、枝は胸の奥にしまい込んでいた過去を、少しずつ掘り起こすように続けた。
「驚いたのは……杉田が、ワカール製薬の“役員”になっていたことでした。
彼が会社を辞めてから間もなくのことでした。
……信じられませんでした。裏であれだけのことをしていた男が、まるで栄転したかのように堂々と経営側に立っていたんです。
それを知ったとき……背筋が凍るような感覚でした」
そして枝の表情は、苦しみに歪んだ。
「それだけでは終わりませんでした。
杉田から、次の“要求”が届いたんです。
今度は、総合グループの取引にも同じ手口を使え――と。
帳簿を操作して、請求額を水増しし、その差額を杉田側に回せと。
断ったら、今までのことをバラす、と。……完全に脅しでした」
橘の胸中に、怒りにも似た感情が湧き上がった。
杉田の支配は、離れてなお枝を縛り付け、さらに広がろうとしていたのだ。
「……それで、私は……」
枝は唇を噛みしめ、声を震わせながら話を続けた。
「……最初に、後輩の山口に相談しました。
自分ひとりで抱えきれないと思ったんです。
そこから、伊藤、石井と繋がっていって……だんだんと、組織の中で、同じように操られている人間が見えてきました。
でも、皆、誰も口にしないんです。杉田に逆らえばどうなるか……皆わかっていたからです」
篤志は苦しげに顔をしかめた。
橘もまた、杉田が人の弱みにつけ込むやり方の卑劣さに、言葉を失っていた。
「……そんな中、ある日、朝比奈さんが自分のところに来たんです。
帳簿を持ってきて、『枝さん、この数字、少しおかしくありませんか?』って……
彼女は鋭かった。本当に些細な数字のズレを、感覚的に見抜いたんです」
枝の声はしだいに震え始め、目には涙が浮かんでいた。
「……私は、とっさに『大丈夫、こっちで処理するから』と誤魔化してしまいました。
自分でも、どうかしてると思いました。
でももう……逃げられなかったんです。
……なのに、彼女は心配そうに見つめて、何も言わずに頷いてくれた。
あんな優しい目を向けてくれたのに……」
枝は両手で顔を覆った。
震えが止まらず、嗚咽が漏れる。
「私は、本当に最低な男です……。
彼女に、何もしてあげられなかった……守ってやるどころか、見て見ぬふりをして……」
橘は静かに、しかし真剣な眼差しで枝を見つめていた。
後悔は遅い。しかし、この告白が、朝比奈麗子の死の真相へと繋がる鍵になるのは間違いなかった。
部屋の中には、枝の涙と、重く深い後悔だけが、静かに流れていた――。
枝は、ひとつ深く息をつき、それまでよりもさらに沈痛な面持ちで言葉をつむぎ出した。
「……杉田に、もうやめようと話したんです。
あんなやり方、長くは持たない。数字だって帳簿だって、どこかで必ずボロが出る。
何より、あの朝比奈さんの目を見ていたら……このまま続けていたら、必ず自分は取り返しのつかないことをしてしまうって、そう思ったんです」
橘と篤志は黙って頷き、枝の懺悔を促した。
「でも……その時、杉田が言ったんです。’)
“じゃあ、あの女に電話をかけろ”と。
“匿名で、こう伝えろ。お前の娘が横領をしていると。会社に迷惑をかける前に、自分から辞めさせろ。そうすれば穏便に済ませる”って……」
橘が、思わず眉をひそめた。
まさか――その電話をかけたのが枝だったのか。
「……枝さん。その電話、かけたのは……あなたなんですね?」
枝は小さく頷き、顔を上げた。
その目はどこか、自分を責めるように濁っていた。
「はい……自分です。
あの時、もうどうかしていたんだと思います。
でも、断れなかった……杉田に逆らえば、自分も家族もどうなるかわからなかった……そう思って」
橘はゆっくりと尋ねた。
「……その電話で、朝比奈さんのお父さんは、何と言っていたんですか?」
枝の喉が詰まったように動き、やがて震える声で口を開いた。
「……強い声でした。
“うちの娘はそんな間違ったことをするような子じゃありません”って。
“何かの間違いでしょう。だったら私は堂々と出るとこに出ますよ”と……。
“麗子は、そういう子じゃありませんから!”って……最後には、こちらの言葉を遮るように、電話を切られました」
その瞬間のことを思い出したのか、枝の表情がきつく歪む。
「それで……すぐに杉田に連絡しました。
“失敗しました”って。
“あの父親には通じませんでした”と。
でも、杉田は一言、“わかった”と言って電話を切っただけでした。……あの時、何かが変わった気がしました」
沈黙が数秒、取調室を支配した。
やがて枝が、ポツリと続けた。
「その数日後……聞いたんです。
朝比奈さんのお父さんが、自宅で自殺したと。
……正直、信じられませんでした。
あんなに自信を持って、娘を信じていた人が……。あんなに強く、はっきりと声を上げていた人が……絶対、杉田に殺されたと….」
橘の胸の奥に、鈍い痛みが走った。
まいちゃん――朝比奈麗子の妹が語っていた「父の不自然な死」。
その裏に、こんな事実が隠されていたのか。
今聞いた、謙と杉田これが、すべての始まりだったのかもしれない。
枝の声は震えていた。
悔しさと恐怖、そして何より深い後悔が、彼の体全体を締め付けていた。
「今でも、夢に出るんです……。
電話口で怒鳴ったあのお父さんの声が、頭の中で何度も響くんです。
“うちの娘はそんなことをするわけがない!”って……。
……その通りでした。彼女は、潔白だった。
そして私は、その人の誇りを壊してしまった……。取り返しのつかないことを……」
篤志が苦しそうに視線を落とし、橘は静かに腕を組んだ。
すべてが一歩、核心に近づいたのを感じていた。
杉田の支配と操作――その手は、既に命を奪う領域にまで踏み込んでいたのだ。
取り調べ室の扉が、静かにノックされた。
そして、少しだけ開いて中に顔を覗かせた刑事が、低い声で告げた。
「橘さん、そろそろ時間です」
その言葉に、橘は軽く頷いて「わかった」と静かに返事をした。
彼の目は、まだ正面に座る枝をまっすぐに見据えたままだった。
「枝さん、今日は……本当によく話してくれましたね。ありがとうございます」
その一言に、枝の目が再び潤む。
橘は、ゆっくりと言葉を継いだ。
「枝さん――あなたは確かに過ちを犯しました。でも、ここからです。まだやり直せます。
あなたが語ってくれた真実は、これから多くの人を救う力になります。
俺たちは、絶対に諦めません。なぜこの事件が起きたのか。誰が、なぜ、人の命を奪ったのか――必ず突き止めます」
橘は自分の胸を軽く叩いた。
「不安なことがあったら、いつでも俺に、そしてこいつに相談してください。
紹介が遅れましたが、栗原と言います。まだ若手ですが、熱い男です。
必要なら裁判所でもどこでも一緒に行きます。支えます。あなたが正直に向き合ってくれたことは、しっかり報告しますから」
枝は、唇を噛みしめながら、こみ上げてくる感情を抑えきれなかった。
肩を小刻みに震わせながら、言葉を絞り出すように呟いた。
「……本当に……本当に申し訳ありませんでした。
でも……刑事さんに会えて、良かったです。
……こんな自分の話を、真剣に聞いてくれて……救われました……」
その言葉を最後に、枝は深く一礼し、係員に連れられてゆっくりと部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、篤志――栗原篤志は、何も言えずにただ黙って立ち尽くしていた。
枝の涙、言葉、そのすべてが胸に刺さるようだったが、それ以上に、橘の姿が――言葉が――まるで光のように、まっすぐに心を打った。
(……やっぱりこの人は……すごい……)
そう思った瞬間、自然と背筋が伸びた。
ただ厳しいだけじゃない。ただ優しいだけでもない。
橘の言葉には、揺るがない正義と、人としての覚悟があった。
人の過ちを責めるのではなく、その奥にある苦しみをも見ようとする、その姿勢。
それは刑事である篤志にとって、言葉にできないほどの尊敬と感動を呼び起こしていた。
橘がふと篤志の肩に手を置き、柔らかく笑った。
「……なに、泣きそうな顔してんだよ、篤志。まだ、始まったばかりだぞ」
その一言に、篤志は胸が熱くなりながらも、必死に涙をこらえた。
「はい……! まだ、始まったばかりですよね!」
橘は軽く頷き、再び前を向いた。
事件の闇はまだ深い。
だが、たしかに今――新たな情報によって一歩を踏み出すところだった。




