327 【重たい借り】
橘は、そっと手元のペンを置いた。
その目は真っ直ぐに枝を見据えているのに、不思議と圧はなく、むしろ温かさがあった。
「枝さん……ここまで話してくれて、ありがとうございます」
その言葉に、枝の肩が小さく震えた。
張り詰めていたものが、わずかに緩んだように見えた。
「……あなたも、ある意味では被害者なんですよ」
静かで、でもはっきりとした声だった。
「この事件には、誰かの“弱さ”に漬け込み、そこにつけ入って利用しようとした者がいます。
金、立場、家族……それぞれが抱えていた事情に目をつけて、引きずり込んだ」
橘は一呼吸置いて、言葉を続けた。
「殺された井上さん、丸山さん――彼らもそうでした。
そして、命を狙われかけた湯川さんも、何か弱みを握られていた可能性が高い。
みんな、“利用された側”でもあったんです」
枝の目が少し潤んでいた。
その視線は机の上をさまよい、何かを押し殺すように小さく唇が動いた。
橘は優しく問いかける。
「枝さん……杉田は、あなたに対してどんな要求をしてきたんですか?
投資の損失を肩代わりしてから、何を望み、何をさせようとしたのか。
それを、教えてくれませんか?」
その問いは、まるで“答えなくてもいい”とさえ言っているかのように柔らかかった。
でも、その中に確かな信念があった。
――真実を知りたい、そして枝を救いたいという真摯な気持ちが、そこにあった。
枝はしばらく黙っていたが、やがて、静かに口を開いた。
「……はい。お話しします。あれは、立て替えの直後くらいから……」
「……そういえば、杉田が妙に気にかけていたんです」
枝はぽつりと呟くように言葉を継いだ。
「同じ部署の朝比奈さんのことを、です。彼女が誰かと話しているだけで、なぜかじっと目で追っていた。
最初は軽い好意なのかな、くらいに思っていたんです。若い男ですし、綺麗な女性に惹かれるのは自然なことだと……」
橘と篤志は黙って枝の言葉に耳を傾けている。
「でも、それだけじゃなかったんです。いつからか、彼女の仕事ぶりや交友関係にまで口を出すようになって。
自分の業務じゃないのに、妙に介入しようとしていたんです。
私も違和感はありました。でも……私は、杉田に“借り”がありましたから……」
枝は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「見て見ぬふりをしてしまったんです。自分の保身のために、あえて目を逸らしてしまったんです」
その声には、はっきりと後悔の色がにじんでいた。
「そんなある日でした。彼が突然、ある“提案”を持ちかけてきたんです。
“請求書を、少しだけ書き換えてほしい”って。
具体的には――ワカール製薬からの請求額を、本来の金額より多く記載する。
それをそのまま、経理に通して振り込ませる。それだけのことでした」
枝は顔を伏せた。
「私は最初、戸惑いました。違法だと分かっていました。でも……彼に借りがあるという意識が、変な風に働いたんです。
“これくらいなら……恩返しの一つだ”なんて、言い訳を自分にして……結局、やってしまいました」
少し間を置き、枝は続けた。
「その月の初めでした。彼から白い封筒を手渡されたんです。
『これ、報酬です』って……中には10万円入っていました」
橘と篤志の表情がわずかに動く。
枝は苦笑いを浮かべ、うつむいたまま言葉を続ける。
「“これはいけない”と思ったんです。でも、現金を受け取ってしまったその瞬間から、自分の中の“線”が切れた気がしました。
一度受け取ってしまったことで、もう断れなくなったんです。
その後も請求書の書き換えは続きました。杉田の指示は少しずつ、でも確実にエスカレートしていきました。
最初は数万円の水増しだったのが、十万、二十万と金額が大きくなり……
でももうその頃には、自分でも“何が普通なのか”わからなくなっていました。
感覚が……麻痺してしまっていたんです」
部屋の空気が重く沈む。
枝の声は決して大きくないが、そこには罪の重みと悔恨がはっきりと刻まれていた。
枝は言葉を選びながら、ふと記憶の奥から何かを引き出すように続けた。
「……あの頃、同じ部署の朝比奈さんに、杉田がしつこく絡んでいたんです」
橘はその言葉に、ぴくりと反応した。
枝の話を聞きながら、心の奥に引っかかっていたある人物の顔が、ふっとよぎる。
“まさか、ここで……謙が関わってくるのか?”
そんな思いが、唐突に胸の奥を走り抜けた。
枝は、話を続けた。
「朝比奈さんはいつも冷静な人でしたが、杉田のあのしつこさにはかなり困っていたようでした。
ただ、立場的にも注意しづらくて……見ているこちらも歯がゆかったです。
そんなときです。確か……高木くんが、杉田に『やめろ』と、はっきり言ってくれたんです」
「高木くん……?」橘が思わず声に出した。
枝は頷きながら、ゆっくりと話を続ける。
「ええ。あの若くて、どこかおっとりしているように見えた彼が、まさかと思うくらい、はっきりと。
しかも杉田に対してですよ? 年下で、後輩の立場だったのに」
「……杉田にとっては、それが面白くなかったんでしょうね」
「そうだと思います。プライドが高い男でしたから。
それ以降、彼の雰囲気が明らかに変わっていったのを、私は肌で感じました。
一言で言えば、冷酷になっていった。
そして……その数日後だったと思います。詳しい日付までは思い出せないのですが……杉田が、何人か部下を引き連れて高木くんを襲おうとした、そんな話を耳にしました」
橘と篤志が息を呑んだ。
部下を使って後輩を襲う――それは、もはや単なる職場の対立では済まされない。
「でも……そのとき、高木くんは――返り討ちにしたんです。
傷だらけにはなったと聞いていますが、それでも彼一人で、杉田たち数人を打ち倒したと。
私は驚きました。あんなに穏やかで、優しくて、どちらかというと存在感の薄かった彼が……
そんなことをやってのけるなんて、信じられなかった」
枝の声には、驚きと共に、どこか恐れのような感情も混じっていた。
「その出来事の後、杉田は会社にほとんど姿を見せなくなりました。
そして、間もなく辞めたんです。理由は語られないまま、突然の退職でした」
橘は静かに頷いた。
その話を聞いた瞬間、頭の中で佐藤の証言と、今聞いた枝の話が、はっきりと一本の線で結ばれた。
(……やっぱり、そういうことか)
杉田、お前がかつて会社で何を経験してきたのか。
なぜ、どこか人を寄せ付けない影を纏っていたのか。
その一端が、ようやく明るみに出た気がした。
「……その喧嘩が起きた場所は、わかりますか?」
橘が慎重に尋ねた。
枝は、申し訳なさそうに首を振った。
「すみません……そこまでは、聞いていませんでした。
ただ、社内では話題になっていたんです。皆、詳細には触れませんでしたけど……
妙に腫れ物に触るような空気が流れていたのを、覚えています」
部屋の中には、重く張りつめた空気が流れていた。
真相が少しずつ見えてくる一方で、まだ語られていない“何か”が、そこには確かに存在していた。




