326 【静かな崩壊の始まり】
それから何度か昼食を共にするうちに、杉田との距離は自然と縮まっていった。
彼はいつも礼儀正しく、こちらを立てるような言い回しをしながら話をする。歳はだいぶ下だったが、どこか落ち着いた雰囲気があり、仕事の愚痴や子どもの話にも耳を傾けてくれた。
ある日の昼休み、いつものように社食の隅でカレーを食べていた時、杉田がふと呟いた。
「部長は株とかやってないんですか?」
「……は? 株? やるわけないだろ。そんな余裕、あると思うか?」
笑い混じりに返すと、杉田はにこりと笑ってから、テーブルの上にスマホをそっと置いた。
画面にはアプリのグラフ。緩やかな上昇線が描かれていた。
「これ、先月からです。僕、少しだけやってて。…まぁ、運もありますけど。副業ってほどじゃないんですけどね。将来のためにちょっとずつって感じで」
その言い方は、ごく自然だった。
まるで近所のスーパーで買ったお得な調味料を勧めるみたいに、軽く、親しげで、警戒心を抱かせなかった。
「……で、それ、いくらぐらい?」
「最初は5万ぐらいです。今15万くらいになってます。3倍ですね。ちょっとコツがあるんですよ」
枝の手が止まった。
カレーのルーが冷めていくのに気づかないまま、画面をのぞき込んでいた。
「誰でもできる?」
「ええ。リスクほとんどないですし、最初の仕組みだけ覚えれば。部長だったらすぐ飲み込めますよ」
その夜、枝は布団に入ってもスマホのグラフが頭から離れなかった。
「…15万、か」
気づけば、仕事も家庭も、見栄を張ることで張りつめていた。
家では「もう少し収入があれば…」と妻がこぼす声が耳に残り、職場では部長という肩書に相応しい姿を求められる毎日。
──少しくらいなら。
その考えが、彼の中に静かに芽生えていた。
「じゃあ…ちょっとだけ試してみようかな」
その一言が、すべての始まりだった。
翌日、杉田は丁寧に投資のアカウント開設の仕方を教えてくれた。何かと“便利なツール”と称して、彼自身が使っているというアプリも紹介してきた。
「最初はこのルートがいいですよ。リスクが低くて、毎日見てれば動きも読めるようになります」
スマホ画面に映るグラフ。ほんのわずかな上がり下がりを、杉田はまるで専門家のように丁寧に説明してみせた。
そして数日後──
「…え? 1万円増えてる?」
最初に入れた五万円が、確かに六万円を超えていた。
夜、自宅のリビングでビールを飲みながらその画面を眺めた時、枝の胸にはひとつの感情が湧き上がっていた。
──安心。
「これなら…やっていけるかもしれない」
数日後には、五万円を十万円に増やしていた。杉田のアドバイス通りに動かした結果だった。
杉田はその頃から少しずつ、枝の内面にある“余裕のなさ”を見透かしたような提案をし始めた。
「部長、来月ってボーナス入りますよね?」
「まぁ、一応はな。家のローンが重いけどな」
「もし、十万だけでも回せたら、来月には倍も狙えると思いますよ。今、流れがすごく良くて。部長みたいな立場の人は絶対チャンスを逃しちゃダメですよ」
「倍……」
枝は、ため息をついた。
もう少し余裕があれば、子どもに新しいタブレットを買ってやれる。妻に「もう少し稼ぎがあれば…」と責められずに済む。
何より、職場で「やるじゃないか」と見直されるかもしれない。
「……ちょっと、考えてみるよ」
そう答えながらも、心の中ではすでに“入金する”と決めていた。
──そう。もう、この時点で、枝は“引き返せるライン”を超えていた。
それから数週間のうちに、金額は三十万、五十万と膨らんでいった。
その度に増える額が快感になり、やがて「これは正しい選択だ」と錯覚するようになった。
だが、ある日、アプリのグラフが急激に下降を始めた。
「……あれ?」
杉田に連絡すると、すぐに返事が来た。
《一時的なものです。すぐ戻りますよ。むしろ、今はチャンスです。買い増しの時です》
枝は迷った。だが、すでに五十万円を突っ込んでいた。ここで止めることが“損”に思えてしまった。
「……わかった。もう十万、入れる」
──杉田が最初に“素直な後輩”として見せた顔が、枝の頭の中で少しずつ歪んでいくのに気づいたのは、もっと後になってからのことだった。
「……また、下がってる」
スマホの画面に表示される赤い数字に、枝は黙って唇をかんだ。
最初に投資を始めた時は、まるで夢のようだった。
少しずつ増えていく残高。
「これなら、なんとかなるかもしれない」と希望さえ見えていた。
だが、数週間前からその流れは一変した。
急激な下落。
一度落ち始めた数字は、止まることなく坂を転げ落ちていった。
――終わった。
そう思った瞬間、杉田からのLINEが届いた。
《部長、大丈夫ですか?》
《もしよかったら、僕が損した分一時的に立て替えます》
枝は、その言葉を何度も読み返した。
立て替える?そんなこと……。
しかし、すでに枝には選択肢がなかった。
家計は火の車。妻にも言えない。
子供の学費、ローン、生活費──全部、背負っていた。
(……俺のせいだ。俺が、調子に乗ったから……)
「お願いできるか?」
夜、誰もいないオフィスの片隅で、枝は震える声で杉田に電話をかけた。
杉田は驚くほどあっさりと答えた。
「もちろんです。部長にはお世話になってますから」
「返済は、期限なしの利息無しで大丈夫ですよ」
まるで、親切な後輩のような声だった。
だが、その声の裏に何か冷たいものを感じたのは気のせいだったのだろうか。
翌日、杉田は笑顔で現れ、封筒を差し出した。
その中には現金が入っていた。
枝は、その手を受け取ってしまった。
それで負債を全部返すことは出来た
それが、何を意味するのかを本当はわかっていたはずなのに。
それは借金ではない。だが、それ以上に恐ろしい“借り”だった。
以降、杉田の態度は少しずつ変わっていった。
笑顔の裏で、彼は静かに、そして確実に枝を支配していった。
“負い目”という名の鎖を首に巻き、決して逃げられない場所へと引きずっていくように。
家では笑えなくなった。
子どもの声が遠く聞こえ、妻の言葉は頭に入ってこなかった。
枝は夜ごと、杉田からの通知音に怯えるようになっていた。
何かを要求されるのではないか、もっと大きな“代償”を求められるのではないか。
そんな不安が、静かに彼の精神を削り続けていた。
「もう、戻れないのか……?」
その問いに、自分で答える勇気すら残っていなかった。




