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324 【まだ見えていないもの……】


「橘さん、ちょっとした質問なんですが……いいですか?」


取り調べ室へ向かう廊下の途中、篤志が少し遠慮がちに口を開いた。

足を止めた純一は、振り返ると穏やかな口調で答えた。


「あぁ、なんだ? 気になることでもあるのか?」


純一の言葉は柔らかく、年下の篤志を尊重するような声音だった。

その目線の先で、篤志は言い淀みながらも自分の中の疑問を少しずつ言葉に変えていった。


「……なんか、こう……この事件、ほとんど終わりに近づいてる感じがしませんか?

枝たちはもう自白したって聞きましたし、重要参考人の杉田も今、他のメンバーが追ってます。

正直なところ、なんだか一件落着って雰囲気が漂ってるような……そんな気がして……」


そこで少し間を置いて、篤志は純一の表情を伺うように言葉を結んだ。

「それでも、橘さんが何か引っかかってるって言ってたから……気になって」


純一は少し驚いたようにふっと短く息を吐いた。

「……篤志、いい質問だな」


小さくうなずきながら、純一は自分の中で絡まっていた糸の先を探るように言葉を選んでいく。


「確かに表面だけ見れば、お前の言う通りなんだよな。

役員たちは尻尾を巻くようにあっさり自白した。証拠も揃ってる。

杉田も、おそらく時間の問題で見つかるだろう。そうなれば、組織としての責任は追及できる。

……でもな」


そこまで言った純一の声に、わずかな濁りが混じった。

「……どうも、ふに落ちないんだよ」


「ふに落ちない……?」


「そうだ。枝たち――あいつら、確かに悪いことはした。けど……どうにも“浅い”んだよ。

あんな連中がこの規模の犯罪を、自分たちの判断だけで始めたとは思えない。

しかも、全員揃って早々に口を割った。罪を問われることへの恐怖ってのはわかるが……それだけじゃねぇ気がする」


純一はゆっくりと前を見据えながら、まるで自分の勘と会話するように続けた。


「……たとえば、杉田がすべての指揮をとっていたとしたら?

現場に顔を出さず、裏で糸を引き、枝たちはただの駒だった――そんな構図だとしたら……今、俺たちが見ているのは“本体”じゃなく、“表皮”だけだ」


篤志はごくりと喉を鳴らした。

気づけば廊下の空気がどこか重く、冷たくなっているように感じた。


「つまり、まだ裏に……何かある、ってことですか?」


「あぁ。……俺のただの勘かもしれない。だけど、警察官として一番信じるべきものは、自分の直感だ。

見落としてるピースがある――そう思えるうちは、終わらせちゃいけない気がするんだよ」


純一のその言葉に、篤志は深くうなずいた。

まだ終わっていない。

事件の奥には、まだ“何か”が潜んでいる――そんな予感が、静かに空気の中に漂っていた。




取調室に入ると、そこは思った以上に静かで、まるで時間が止まったようだった。


長机と椅子があるだけの簡素な空間。天井の蛍光灯の明かりが、室内の空気をさらに張り詰めさせる。


テーブルにはまだ誰も座っておらず、空っぽの椅子がただこちらを向いている。

橘、そして篤志は扉側の席に腰を下ろし、そして深く息をついて枝が来るのを待った。


橘は手にノートを持ち、篤志も少し緊張した面持ちで二人ともこれからの数分に集中していた。


しばらくして、静かに扉が開く音がした。

制服警官が一人の男――枝を連れて入ってきた。

彼の両手には銀色の手錠がかかっており、その足取りは重かった。

だが警官が丁寧に椅子を引いてやると、枝は無言で腰を下ろし、手錠を外されたあとも、手を膝の上で静かに組み、うつむいたままだった。


枝と橘の視線が少しだけ交差する。橘は少し微笑みながら、穏やかな声で口を開いた。


「枝さん……久しぶりですね。まさかこんな形で、あなたと会うことになるとは思いもしませんでしたよ」


橘の口調は、驚くほどやさしく、穏やかだった。

それは責めるでも、冷たく突き放すでもなく、かといって甘すぎることもない――人としての距離を忘れない、絶妙な声だった。


枝は少しだけ顔を上げ、その目にかすかに戸惑いと緊張をにじませたまま、小さく頭を下げた。すまなそうに


「……申し訳ありません。こんなことに……なってしまって……」


その声は震えていた。罪悪感の色がはっきりとにじんでいたが、それは単に“捕まったこと”への後悔ではないように聞こえた。

自分のしてしまったこと、巻き込んだ人間たち、そして何より自分が失ったものへの、静かな痛みが含まれていた。


橘はその様子を見ながら、さらに柔らかな口調で言葉を続けた。


「いろいろ聞かれて、もうずいぶん疲れてるでしょう。……でも、あと少しだけ。俺たちにも、あなたの言葉を聞かせてくれませんか。

あと少しだけ付き合ってくださいね。」


その言葉に、枝の表情がほんのわずかに緩んだ。

取り調べ室という硬質な空間の中に、わずかだが“人間らしい空気”が流れた瞬間だった。


橘はゆっくりと資料をめくるふりをしながら、まるで昔話を語るような自然さで質問を投げかけた。


「枝さん……今回の一連の流れ――この“シナリオ”を描いたのは、あなたですか?

それとも……杉田ですか?」


その瞬間、枝の顔が明らかに変わった。

驚き、戸惑い、そしてなぜか……安堵のような色が、その目に浮かんだ。


「私たちはね、あなたがすべてを仕組んだとは思っていないんですよ。話してくれませんか。杉田が、裏でどんな動きをしていたのかを。」


今までの取り調べでは、自分が首謀者であるという前提のもと、問い詰められることばかりだった。

だが今、初めて誰かが“自分が全てを仕組んだわけではない”可能性に触れたのだ。

その事実が、枝の中にわずかな希望を灯した。


「この人たちなら話してもいいのかもしれない」

この人は、信じてくれるかもしれない。」…


心の中で枝は、そんな思いを強くした。

それが本当に救いになるのか、それとも新たな痛みを生むだけなのかはまだわからない。

けれど今この瞬間だけは、橘のまなざしが“味方”のように思えた。

だからこそ、枝の胸の奥に押し込めていた言葉が、少しずつ、浮かび上がろうとしていた。


この瞬間、何かが動き出す気配がしていた。


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