322 【それぞれの朝】
朝の通勤電車。
満員の車内に揺られながら、俺はずっとスマートフォンの画面を見つめていた。
何度も、何度も――電話帳をスクロールしては、また最初に戻る。
名前のひとつひとつに目を通しているのに、どうしても“あの人物”が紛れ込んでいるとは思えなかった。
(……この中には、疑わしいやつなんていない)
そう確信しながらも、画面を閉じる勇気が出ない。
頭のどこかで、「もしかしたら見落としているのかもしれない」と思ってしまう。
それほどまでに、今回の出来事は俺の心をかき乱していた。
一体、どうやって――
俺の携帯番号が杉田に知られたのか。
電話帳の中に答えがないのなら、他に可能性は?
誰かに口頭で教えた? いや、それも思い当たらない。
まい以外に、新しい番号を知っている人間なんて限られている。
それにこの番号は、入院中にまいが買ってきてくれたもの。
退院してからの間に、俺自身が何人かに伝えた記憶はある。
でも、それはほんの数人。信頼できると思っていた人間ばかりだった。
(……本当に、誰が)
考えれば考えるほど、胸の中が重たくなっていく。
電車の揺れが、まるで自分の動揺をあざ笑っているようにも感じた。
画面を閉じてポケットにしまおうとするその直前、
俺はもう一度だけ、目を細めながらリストをなぞった。
まるで“裏切り者”の名前が突然浮かび上がってくるのを期待するように。
――だが、やはり何も見えてこなかった。
一人ひとりの名前の横にある電話番号が、今はただの記号のように見える。
これほどまでに、自分が“誰かを信じられなくなる”日が来るなんて思わなかった。
そして、それでもまだ「まいだけは違う」という想いが心に残っている。
俺は目を閉じて、深く息を吐いた。
これ以上は考えても、答えは出ない――そう思いながらも、心はまだざわついたままだった
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純一も昨日、謙のもとに届いたショートメールのことが頭から離れなかった。
――なぜ、あのメッセージは謙の元へ“直接”届いたのか。
電話番号を知らなければ、ショートメールは送れない。LINEやSNSとは違い、偶然繋がるものではない。つまり、あの送り主は謙の“携帯番号”を知っていたことになる。
それが不自然だった。
謙の携帯は、購入してからまだ一か月も経っていない。番号も新規契約したもので、以前と同じものを引き継いだわけではないと聞いている。
一番単純なのは――誰かが謙の携帯をこっそり見たこと。
寝ている隙、酔っているとき、あるいはほんの一瞬の油断。
だが、それだけで割り切るには何かが引っかかる。
純一は思考をめぐらせた。
番号を知っていたとすれば、この一か月の間に謙と接触した誰か。
電話帳に登録されている人物……だが、それではあまりに単純すぎる。
それに、謙の電話帳には特に怪しい名前はなかった。
調べようと思えば、もちろんそれも一つの手ではある。
だが、誰かが時間をかけてそれを確認させようとしているとしたら?
あえて“電話帳の中”に答えがあるように思わせて、本当の狙いは別のところにあるのではないか。
――これは、時間稼ぎ……
直感的にそう感じた。
答えを探すふりをさせ、注意を逸らすための“撒き餌”。
もしそうなら、肝心なのは「誰が」
それこそが、今回の鍵になる――。
思考が深まるほど、背中にひやりとしたものが這い上がってくる。あのメールを思えば
次の一手を誤れば、謙だけでなく、自分自身も飲み込まれるかもしれない。
気がつけば、電車はもう駅に滑り込んでいた。
ブレーキの音に我に返った純一は、慌ててドアのほうへと向かった。
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「そういえば、昨日はゴールデンウィークのこと、聞けなかったなぁ……」
ふと、そんなことを思い出す。
本当は昨日のうちにLINEしようかと思っていた。でも、タイミングがつかめなくて、気がつけば夜になっていた。その後はグループLINEだった。楽しかったけど少し寂しかった。
「今日こそは……」とスマホに手を伸ばす。
でも、きっと今ごろは仕事中だろう。忙しい時間に送ったら、邪魔になってしまうかもしれない。
そんな風に考えて、またそっとスマホをテーブルに戻した。
会えない時間が続くと、些細なことが心に沁みる。
たとえば、謙から届くたった一通のメッセージ。
文面は短くても、その言葉の一つひとつがやけに優しく感じて、思わず胸があたたかくなる。
――こんな風に感じるのは、離れて暮らしているからなのかなぁ……
会いたい。声が聞きたい。隣にいて、ただ笑い合いたい。
そんな気持ちは日に日に強くなるのに、距離はすぐには縮まらない。
だからこそ、謙の“優しさ”が胸にしみる。
それが嬉しくて、でも、同時に少しだけ苦しい。
頭ではわかっている。
お互いに頑張っていることも、今は仕方のない時期だということも。
だけど、気持ちはなかなか割り切れない。
そんな風に考えながら――というより、気づけばまた謙のことばかりを思っていた。
朝からずっと、頭の中にあるのは、やっぱり彼のことだった。




