320 【知られるはずのない番号】
「さて……これからだな」
ふたりの間に、一瞬の静寂が落ちる。
気持ちを整理しきれないまま、謙がぽつりとつぶやいた。
「なぁ、純一……。こらからどうすればいいと思う?」
ソファにもたれながら、謙は迷うように純一を見た
すると隣の純一が、ふと真顔になり、思いついたように問いかけてきた。
「なぁ、謙。……お前の携帯番号、杉田がどうやって知ったんだ?」
その言葉に、謙は瞬きを数度繰り返した。
あまりにも素朴な、けれど聞き流せない疑問だった。
「ショートメールってさ、番号知らなきゃ送れないよな?
あいつ、どうやってお前の今の番号を知ったんだ?」
「昔の番号じゃないのか?」
純一は考えを巡らせるように続けた。
謙は首を横に振った。
「いや、違う。……今の携帯は、事故のあと病院でまいが新しく買ってくれたやつだ。
前の携帯は粉々に壊れてたって。まいが処分したって言ってた。」
純一の表情が、そこで明らかに変わった。
「……ってことは、その番号を知ってる人間って、限られてるよな?」
部屋の空気が、急に重たくなる。
謙も、言葉を失ったように黙り込んだ。
純一の背中に、じわりと冷たい汗が伝った。
「謙。……お前、その番号を誰に教えたか、ちゃんと覚えてるか?」
低く、少しだけ震える声だった。
謙は必死に記憶をたぐる。けれど、事故以降、関わった人間の数はそう多くはない。
「……そんなはずない、まさか」
だが、可能性はひとつしかなかった。
杉田が知っているということは──誰かが教えたのだ。
杉田の他に、もう一人、内通者がいるということ。
知らない間に、自分たちのすぐそばに、“裏切り者”が紛れ込んでいるかもしれない。
部屋に、再び重苦しい沈黙が落ちた。
さっきまで笑い合っていたグループLINEのやり取りが、遠い過去のことのように思えた。
俺の胸の奥に、得体の知れない焦りが込み上げてきていた。
まさか……そんなはずはない。
けれど確かに、杉田は俺の新しい携帯番号を知っていた。
事故のあと、新しい端末を使い始めたその番号は、限られたごくわずかな人間しか知らないはずだったのに——
思考がグルグルと回りはじめる。
冷静でいようとしても、どうしても落ち着かない。
何かがおかしい……それだけははっきりしていた。
俺の携帯は事故の衝撃で完全に壊れていた。
画面も、基板も、すべて粉々だったと聞いた。
まいが病院で処分してくれたとき、何も違和感はなかった。いや、少しだけあったのは確かだ…
だが俺はそれを信じていたし、何の疑問も抱かなかった。
ただ、新しい携帯を渡されたとき、確かに復元されたのはほんの一部だけだった。
電話帳も、アドレス帳も、すべて失われていた。
残っていたのは、いくつかの写真と、断片的なデータだけ。
だからこそ、思う。
この番号を知っている人間は、まい以外にそう多くはないはずだった。
入院中とその後に俺と関わった人間は限られていた。
医療関係者と、まい、そして……ほんの数人の仲間。
じゃあ、どうやって杉田が俺の番号を手に入れた?
どうしてそんなことが可能だった?
俺は信じていた。
いや、今も信じている。
まいが俺を裏切るなんて、考えたくもない。
彼女が、あの優しい目で、俺の側にずっといてくれた。
震えた俺の手を握って、「大丈夫」と笑ってくれた。
だから——俺は、まいを信じている。
信じたい。
でも……。
頭の奥に、何かが引っかかっている。
あの時、入院していたベッドの上で、ほんの一瞬だけ「ん?」と感じた違和感。
言葉にならないほど曖昧で、だからこそ流してしまった何か。
それが、今になって引っかかる。まるで、過去から警鐘が鳴らされているように。
思い出せない。
けれど、確かにあった“疑問”。
それが何だったのか、どうしても思い出せない。
胸の奥がざわつき、思考は混乱を極めていた。
信じたい想いと、疑念の隙間に入り込んでくる冷たい現実。
俺は今、何を信じればいいのか——わからなくなりかけていた。
「携帯の電話帳、ちょっと見せてくれないか?」
そう純一に言われて、俺は迷うことなく端末を手渡した。
俺の中に、もう“何かを隠したい”という気持ちはなかった。ただ、知りたかった。確かめたかった。
純一は、何も言わずに黙々と画面をスクロールしながら、電話帳の一覧を次々にスクリーンショットしていく。
そしてそれを自分のLINEに送信していた。きっと、名前や番号を照らし合わせて一人ずつ調べてくれるつもりなのだろう。
本当に、頼りになるやつだ。
だけど、そんな彼の動きをぼんやりと見ているうちに、俺の頭の中は静かに、しかし確実に崩れていった。
——何も考えられない。
思考という思考が、砂のように崩れていく。
現実と感情の境目が曖昧になっていくようだった。
「これ、明日調べてみるからな」
そう言って純一が立ち上がった。
時計をちらりと見て、「電車、そろそろやばいな」と笑った。
「あぁ……わかった。気をつけて帰れよ」
俺はふらつくように立ち上がって、玄関まで彼を送った。
背中が少し丸くなっていた。きっと疲れているはずなのに、それでも最後まで俺のことを気にかけてくれる。
靴を履きながら、彼がもう一度、俺の顔を真っ直ぐに見て言った。
「謙。本当に……何かあったら、必ず連絡しろよ。1人で抱え込むな。絶対に、だ」
その言葉に俺は、力なく頷いた。
「……あぁ、わかってる。必ず、な」
そう言って、俺は純一の背中を見送り、ドアを静かに閉めた。
カチリ、という音が、やけに部屋に響いた。
途端に訪れる沈黙。
昼間の喧騒、そしてさっきまで4人で笑い合っていた時間が嘘のように思えるほど、静まり返った部屋。
その静けさが、何よりも胸に刺さる。
さっきまで感じていた不安とは別の、もっと深い場所にある“痛み”が、じわじわと押し寄せてくる。
——俺は、まいを疑い始めているのか?
そんな自分が、信じられなかった。
あんなにも信じていた彼女を、あれほど想っていた人を、俺は今、心のどこかで「もしかして」と考えてしまっている。
そう思った瞬間、胃の奥がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
吐き気すら覚えるような自己嫌悪が襲ってきた。
昼間、俺は“病んでいる”と感じていた。
けれど今は違う。
その何倍も、何十倍も辛い。
まいのことを信じきれなくなりそうな自分自身が、いちばん恐ろしい。
俺は、まいを信じていたい。
あの笑顔を、あの言葉を、信じたい。
けれど、現実は――。
その矛盾と痛みに挟まれて、俺はそのまま部屋の片隅に腰を下ろした
この夜の静けさが、何よりも残酷だった。




