316 【指先から始まる、小さな奇跡】
買い物を終えて家に戻り、食器の準備をしながら、俺はふと、まいのことを思い出した。
いや、正確には「思い出した」という表現は違う。
ずっと頭の片隅にはいたんだ。ただ、どう返事をすればいいのか分からず、画面を開くことすらできなかっただけだった。
あのショートメールが届いてから、心のどこかにずっと重たいものがのしかかっていた。
まいの明るくてまっすぐな言葉に、素直に応えられない自分がいた。
返信しようと何度も思った。でも言葉が出てこなかった。
それが情けなくて、歯がゆくて──罪悪感だけが募っていた。
だけど今、俺の中の何かが少しずつ変わってきていた。
純一に頼ろうと決めたからかもしれない。
ひとりで抱え込むのをやめようと決意できたから、心に余白ができたんだろう。
「まいに連絡しよう」
自然と、そんな気持ちが湧いてきた。
今なら、素直に言葉を伝えられる気がした。
俺はスマートフォンを手に取り、まいへのLINE画面を開いた。
そして、指を動かして言葉を打ち込んだ。
⸻
「ごめん、遅くなって。今日は何してた?
これから純一と“寂しい1人暮らしの会”ってやつをやるところ。
お互い1人暮らしのくせに、片方にはまい、片方には香さんって存在がいるんだから、贅沢な悩みだよな。
でも何か上手くいかないもんだ。
今夜のメニューは純一がデパ地下で調達してくるらしい。
俺は酒担当。やっぱり男ってダメだな〜って思った。
まいのありがたみ、改めて痛感中です」
⸻
送信ボタンをタップすると、画面が切り替わり、無事メッセージは届いたことを示していた。
それだけのことなのに、なぜか心がふっと軽くなった。
ずっと引っかかっていた罪悪感が、少しだけ解けた気がした。
やっと、まいの存在にちゃんと向き合えた気がしたのだ。
“ありがとう、まい”
心の中で、そっとそうつぶやいた。
香とまいは、小さなテーブルを囲んで楽しく夕食をとっていた。
他愛もない話題で笑い合いながら、香の近況や、ちょっとした日常の出来事を語り合っているとき──
まいの携帯が小さく振動した。
ポケットの中で静かに知らせるその振動に、まいはすぐ気づいた。
だけど、すぐには取り出さなかった。香と話している時間を大切にしたくて、ほんの一瞬ためらったのだ。
しかし、その様子を見逃さなかった香が、優しく声をかけてきた。
「まいちゃん、今の…メールじゃない?謙さんかもよ?」
その言葉に、まいは少し頬を染めながら、照れくさそうに微笑んだ。
「うん、ちょっと見てみるね」と言いながら、そっと携帯を手に取った。
画面を開くと、やっぱり謙からだった。
まいは香に「ちょっとごめんね」と一声かけてから、メッセージを読み始めた。
読み進めるうちに、自然と口元がゆるみ、柔らかい笑みが浮かんでいた。
そんなまいの表情を見て、香がくすっと笑いながら聞いた。
「なんて書いてたの?」
まいは画面を見つめたまま、微笑みながら答えた。
「今夜ね、純一さんと“寂しい1人暮らしの食事会”をするんだって。
2人とも一人暮らし同士で、寂しさを分かち合うって。なんだか可笑しくて、でもちょっと楽しそうですよね」
それを聞いた香は、思わず吹き出してしまった。
「ふふ、それは純一らしいわね。
きっと今夜のごはんはお惣菜だらけなんじゃない?」
まいも、つられるようにくすっと笑いながら言った。
「うん、純一さんがデパ地下で買ってくるみたい」
2人の笑い声が、テーブルの上を柔らかく包み込んでいく。
まいの胸の奥に、ほっとするようなあたたかさが広がっていた。
謙の言葉に安心し、香と笑い合える今この瞬間が、なにより嬉しかった。




