315 【タイミング】
篤志と駅で別れてから
橘は足を止め、ポケットからスマートフォンを取り出した。
無意識のうちに、画面に表示された「謙」の名前をタップしていた。
コール音が何度か鳴った後、ようやく繋がる。
「もしもし、謙か?」
「……ああ、お疲れ。どうした?」
いつもの落ち着いた声が聞こえ、橘は少しだけ安心する。
「今、どこにいる?」
「ちょうど家の近く。もうすぐ着くとこだよ」
「今からそっちに行っても構わないか?」
「もちろん。どうした、急に。なんかあったのか?」
「いや、ちょっと顔が見たくなっただけさ。それに……」
一拍置いて、橘は軽く冗談を交えるように言った。
「2人、悲しい一人暮らし同士だろ? たまには一緒に飯でもどうかと思ってな」
電話の向こうで、謙が小さく笑ったのが伝わってくる。
「いいね。問題ないよ。家で食べる? それともどこかで外食でも?」
「お前の家にしようか。こっちでデパ地下寄って、何かつまみになるもんでも買ってく」
「助かるよ。じゃあ、俺は酒担当ってことでいいか?」
「もちろんだ」
「じゃあ、また後で」
「おう、気をつけて来いよ」
通話が切れる。
短いやり取りだったが、それだけで橘の胸の奥に少し温かいものが灯る。
――あいつの声を聞くと、やっぱり落ち着くな。
だが同時に、橘の脳裏にはある疑問がくすぶっていた。
倉庫のこと。あの、謙の記憶の奥底に引っかかっていた“倉庫”という存在。
やはり、もう一度ちゃんと確認しておきたい。
記憶の断片でも、今の自分たちには大切な手がかりになるかもしれない。
「直接顔を見て話した方が、きっと何か思い出すかもしれないしな……」
そうつぶやきながら、橘はゆっくり歩き出した。
夜風が少し冷たく感じる春の夜。
だが、向かう先には頼れる仲間がいる。それだけで、不思議と心は前向きになれた。
このタイミングで純一から電話….
俺はずっと、1人で頭を抱えていた。
何か答えを導き出そうと、何度も同じ考えを堂々巡りさせてはみたが、結局のところ何も掴めずにいた。
思考は濁り、心はざわつくばかりだった。
――やっぱり、純一に頼るべきなんだろうな。
ふと、そんな考えが心に浮かんだ。
彼は警察官だ。冷静で、判断力もある。そして何より、俺のことをずっと見てきてくれた友人でもある。
ひとりで抱え込んで、行き詰まって、まいにすら返信もできない今の俺は──どうしようもなく情けない。
ただ画面を眺めているだけのくせに、返すべき言葉すら見つけられないなんて。
「……何やってるんだ、俺は」
思わず、声が漏れた。
こんなことで立ち止まっていたら、何も進まない。
まだ終わっていないのに、気持ちのどこかで諦めかけている自分がいる──それが何より悔しかった。
ビビってどうする。怯えてどうする。
俺はあいつを終わらせるって決めたじゃないか。
だったら、今できる最善の選択をするしかない。
そうだ、これが俺の出した答えだ。
純一が来たら、ちゃんと話そう。すべてを正直に伝えて、一緒に次の一手を考えよう。
ひとりじゃない。信じられる仲間がいる。それを忘れちゃいけない。
――よし、とりあえず酒でも買って帰ろう。
どうせ話すなら、腹を割って、酒でも酌み交わしながらのほうがいい。
今夜は酒盛りだ。
本気で向き合うための、大事な夜になる気がした。




