314 【ゴールデンウィーク、いつ会えるのかなぁ……】
ふとつぶやいたその言葉が、自分の耳に切なく響いた。
まいはソファにひとり、午後のお茶をゆっくりと味わいながら、静かに窓の外を見つめていた。
さっきまでいつも通りに家事をこなし、お弁当を作って香を送り出し、洗濯物も片づけて掃除機までかけた。
家の中は整い、穏やかな午後の日差しがカーテン越しに柔らかく差し込んでいたけれど、心の中にはぽっかりと空いた小さな隙間があった。
その隙間を埋めるように、考えるのは同じことばかり。
「謙に会いたいな」
それが、今のまいの毎日の、何よりの願いであり、楽しみであり、心の支えだった。
会えない時間も、もちろん不安じゃないわけじゃない。
けれど、メールが届くだけで嬉しくて、返信があるだけで一日が明るくなった。
だからこそ、会えるかもしれないその日を、心の中で何度も繰り返し想像してしまう。
「泊まろうか、って言ってたし、一泊二日かな……」
まいは小さく微笑みながら、そっとお茶を口に運ぶ。
「謙はどこに連れてってくれるんだろう」
特別な場所じゃなくてもいい。ただ、隣に謙がいて、ふたりで同じ景色を見られたらそれで充分だった。
でも、もしも……なんて想像が膨らんでいく。
思い出すだけで、胸の奥がほんのりあたたかくなる。
早く会いたいな――。
その気持ちは、午後の陽射しよりもやさしく、まいの心を包んでいた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
午後の仕事には、どうにも気持ちが入らなかった。
書類に目を通し、簡単なデータ入力や確認作業をこなす分には問題なかったが、それらはすでにルーティンになっている業務。手が勝手に動いてくれるような作業だった。
だが、それ以上のことに意識を向ける余裕が、今の俺にはなかった。
朝に届いたあのショートメール――杉田からの挑発ともいえる文面が、頭の奥にこびりついて離れなかったのだ。
「楽しめるのも今のうちだ」
その一文に込められた異様な自信と、ぞっとするような冷たさ。
奴は何を知っていて、何を企んでいるのか。
あの言葉にどこまでの意味があるのか。
それを考え出すと、いくら時間があっても足りなかった。
このまま黙って杉田を待つべきなのか。
それとも、純一にすべてを話して、正式に警察の手で動くべきか。
どちらを選んでも、まいの身を守ることが最優先であることは変わらない。だが、同時にこの決着を自分の手で終わらせたいという気持ちも、確かに胸の奥にあった。
どうすれば正解なのか――何度自問しても、答えは出なかった。
堂々巡りの思考が続くばかりで、何ひとつ前には進まない。
そんなときだった。
ポケットに入れていた携帯が、震えるように振動した。
俺は思わず身体を固くした。
杉田か? まだ何か言ってくるのか? そう思いながら、恐る恐る画面を確認した。
だが、そこに表示されていたのは、「まい」の名前だった。
一瞬で、胸の緊張がふっとほどけた。
まいからのメッセージを見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
柔らかな口調、いつものように気遣いにあふれた文章。
「謙、お疲れ様。ゴールデンウィークの事考えるとワクワクしてどうしよう…
早く会いたいです。楽しみにしてるよ。
仕事忙しかったら返信はいつでも大丈夫だからね。頑張ってね」
そして、「早く会いたいです」という素直な言葉に、思わず携帯を強く握りしめていた。
まいの声が文字から聞こえてくるようだった。
そのメッセージは、どこまでも優しくて、まっすぐだった。
ほんの数時間前までの俺だったら、この言葉に心の底から嬉しくなって、すぐにでも「俺も会いたい」って返せていたはずだった。
でも今は――その一言が出てこなかった。
喜ぶべきタイミングなのに、心は重く沈んだままだった。
あの男からのメールの影が、頭の中から消えずにずっと居座っていた。
「もう少しで決着だ。高木、楽しみにしてろよなぁ」
あの言葉はただの脅しじゃない。そう確信できるだけの何かがあった。
それは“予告”に近いものだった。
もし、まいのそばに危険が迫っているとしたら?
もし、この先の数日間が、彼女にとっても“最後の穏やかな日々”だったとしたら?
そんな最悪の想像ばかりが頭をよぎる。
――守らなきゃいけない。
でも、どうすれば?
今、彼女に会うことが正しいのか。距離を取ることが安全なのか。
どんな選択をすれば、まいを巻き込まずに済むのか――
考えれば考えるほど、答えが見えなくなっていった。
まいのメッセージは、まっすぐに“希望”を語っていた。
だけど、俺の心はそれに応えられる状態じゃなかった。
まるで、自分だけが別の世界にいるような感覚だった。
きっと、まいは今何事もなく穏やかな生活をしている。
きっと俺のことを考えてくれている……
ありがとう……でもごめんな……
こんな俺で.…
それでも俺は、画面を見つめながら小さく息を吐いた。
「でもありがとう、まい」と、心の中でだけ呟いた。
守りたい。
それが全てだった。
だけど、どうすれば守れるのか――その答えだけが、まだ見えなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「倉庫……その倉庫を誰か知らないのか……」
橘はそう呟きながら、篤志と共にワカール製薬の受付に足を踏み入れた。社内は落ち着いた雰囲気で、受付の女性が丁寧に応対してくれた。
「すみません。杉田という元社員と関わりの深かった方がいれば、少しだけお話を聞かせていただきたいのですが」
橘の頼みに、受付の女性はすぐに数名の社員に連絡を取ってくれた。しばらくして、中年の男性社員と、もう一人若い男性社員が応接室へと案内されてきた。
「急にすみません。私たちは警察の者です。杉田さんのことについて、少しだけ確認させていただきたいんです」
名刺を渡し、丁寧に挨拶を済ませたあと、橘は本題に入った。
「お二人とも、杉田さんと親しかったと聞きました。彼が私生活で何かコレクションをしていたとか、趣味にしていたことをご存じないですか? 特に“倉庫”を借りて、何かを保管していたというような話を聞いたことはないでしょうか?」
2人の社員は一瞬顔を見合わせると、少し困ったように眉をひそめながらも、それぞれ記憶を探るように口を開いた。
「そうですね……はっきりとした話ではありませんが、杉田さんが何か“古いバイク”や“模型”みたいなものを集めていたという噂は聞いたことがあります。確か、倉庫を借りて、そこにいろいろ並べて楽しんでいたって……」
「ただ、それが本当なのかは分かりません。僕たちも、そこに行ったことはないですし、杉田さん自身がその話をすることはほとんどありませんでした。噂程度です」
橘はうなずきながら、さらに質問を重ねた。
「その倉庫の場所について、誰か知っていそうな人に心当たりはありませんか? 例えば、杉田さんと特に仲の良かった社員とか、外部の付き合いがあった方とか」
「うーん……うちの社員でそこまで深くプライベートな話をする人って、ほとんどいなかったと思います。杉田さん、意外と口が堅いというか……人を選んで話すタイプだったので」
橘はふと、これまでの捜査情報が頭をよぎった。
――そうか。やはり杉田は自分の趣味やプライベートを簡単には話さなかった。倉庫の場所も、意図的に隠していた可能性がある。
「ありがとうございます。少しずつですが、情報がつながってきた気がします」
橘はそう言って頭を下げ、社員たちに礼を述べた。部屋を出たあと、篤志がぽつりと呟いた。
「でも、倉庫はやっぱり実在する可能性が高いですね。そこが次の鍵になるかも」
橘は頷いた。
――必ず見つけてみせる。杉田の隠れ家。
「でも……どうして“倉庫”なんて場所が急に浮かんだんですか?」
ワカール製薬を出た帰り道、篤志はずっと気になっていたことを、歩きながら橘に尋ねた。
彼の中では、いきなり“倉庫”という単語が捜査のキーワードに浮上したことが不思議だった。
すると橘は、歩みを少し緩めながら、落ち着いた口調で答えた。
「高木さんがな……杉田の話をしてるときに、ふっと“倉庫”って言葉が頭をよぎったって言ってたんだ」
「倉庫……ですか」
「あぁ。完全に思い出したわけじゃない。断片的な記憶の中で、暗くて、埃っぽくて……なんか背後から羽交い締めにされたような、そんな嫌な感覚が蘇ってきたらしい。場所の特定まではできなかったけどな。だから、ひょっとしたら……って思ったんだ」
橘は少し空を仰いで続けた。
「今はどんな小さな情報でも拾っていくしかない。確実な証拠なんて、そうそう都合よく出てくるもんじゃないからな。だからこそ、直感でも、記憶のかけらでも、すがる価値がある。何より……1日でも早く、杉田を捕まえなきゃいけない」
その声には、怒りでも焦りでもない、まっすぐな使命感がこもっていた。
そして続けた。
「俺たちが追ってるのは、“ただの容疑者”じゃない。誰かの大事な人を傷つけて、誰かの人生を狂わせた“加害者”だ。泣いてる人がいるなら、その涙を止めてやるのが俺たちの仕事だろ?」
その言葉に、篤志は何も言い返せなかった。
むしろ、心の中に熱いものがこみ上げてきた。
今までも橘の仕事ぶりには尊敬していた。
だけど今、目の前でまっすぐに語るその背中を見て、改めて強く感じた。
――この人は、本気で“人のため”に動ける刑事なんだ。
ただの正義感だけではない。経験と執念と、揺るぎない信念を持って、一つひとつの事件に向き合っている。
篤志はその背中を見ながら、心の中で深く思った。
(俺も、こんな刑事になりたい……)




