311 【朝の一杯と、小さな気づき】
インスタ始めます。初心者ですがそちらも頑張ろうと思います。
なので今夜はもう一話投稿しまーす。
これからもよろしくお願い致します。
朝、目が覚めたとき――
いつもと同じ天井を見つめながら、謙はふと、自分の気持ちが昨日と違っていることに気がついた。
何か特別な出来事があったわけじゃない。ただ、まいと交わした、メール。それだけなのに。
それでも、胸の奥にほんの少し温かい灯がともっていた。
いつもと変わらない朝のルーティンをこなす。
テレビのスイッチを入れ、ポットに水を注いで湯を沸かし、洗面所で歯を磨く。
湯気の立つマグカップを手に、コーヒーの香りを吸い込んだときだった――
ふと、携帯に手が伸びていた。
何も考えずに、自然と指が動いていた。
「まい、おはよう。今仕事の支度をしてコーヒーを飲んでる。昨日、朝飯の買い物を忘れたから途中で適当に済ます予定。また、まいに怒られるかな」
少し笑って、送信ボタンを押す。
それだけの、なんでもないようなやりとり。
だけど、この数日間、自分の中を支配していた苛立ちや怒りが、ふっと和らいでいくのを感じた。
「取り戻さなきゃな、俺自身を――」
焦る必要はない。
すべてを思い出す必要もない。
でも、何が本当に大切だったか、忘れてはいけない。
まいとの時間、まいの笑顔、そして守りたいという気持ち。
もしその「時」が来たとしても――
その時、自分に覚悟さえあれば、大丈夫
絶対に奴の思う通りにはさせない。
そう信じて、今日を始めようと思えた。
小さなメールが、謙にとっては確かな一歩になっていた。
まいはその朝も、いつも通りに一日を始めていた。
目が覚めるとすぐにキッチンに立ち、香のお弁当を用意する。彩りや栄養のバランスを気にしながら、どこか安心できるこの作業は、まいの日常にすっかり馴染んでいた。
香を玄関で見送ったあと、洗濯機のスイッチを押す。カタカタと回る音が静かな部屋に響く。
その間に、まいはテーブルの席に腰を下ろす。温かいお茶を片手に、ようやく深呼吸。
毎日繰り返される、変わらないはずの時間。
だけどその日は、ほんの少し違っていた。
テーブルの上に置かれた携帯が、ふるりと小さく震えた。
たった一度の静かな振動――だけど、まいの胸にははっきりと届いた。
心のどこかで思っていた。「もしかして」――と。
そっと画面をのぞき込む。
そこに表示されていた名前を見た瞬間、まいの胸がきゅっと締めつけられるように高鳴った。
……謙……
その二文字が、朝の空気を一変させた。
寒さの残る春の朝なのに、指先までぽかぽかと温かくなっていくような、不思議な感覚。
何気ない日常のなかに、こんなにも嬉しい“変化”があるなんて。
画面の中の言葉を読む前から、まいの頬には自然と笑みが浮かんでいた。
それは、小さな振動が運んできた、幸せの予感だった。
まいは画面を見つめたまま、そっと微笑んだ。
まるで大切な手紙を受け取ったかのように、ゆっくりと……
まいも迷いなく、指先を動かし始める。
「おはよう。謙、メールすごく嬉しかったよ。」
まず、その気持ちを一番に伝えたかった。
画面越しでも、彼に今の自分の笑顔が届いてほしいと願いながら。
「でも、朝ごはん抜きはダメだよ。www」
優しい注意に笑いを添える。いつか直接笑いながら言える日が来ることを願いながら。
「ちゃんと食べて、元気でいてね。」
そして、最後に、ふいに胸の奥から溢れた気持ちを綴った。
「早く、謙の朝ごはん作ってあげたいなぁ。」
それは、特別なことではない。けれど、まいにとっては何よりも今の大切な夢だった。
想いを込めて、送信ボタンをタップする。
その瞬間、画面からは何の音も返ってこないけれど、まいの心には確かな手応えが残った。
小さなやりとり。でもそこには、まいの“これから”への希望がたっぷり詰まっていた。
まいからのメールを読み終えた瞬間、謙の口元に自然と微笑みが浮かんだ。
心のどこかで、「もうこんな気持ちになることなんてない」と思っていた。
けれど、こんなにも簡単に、ただのひと言で心があたたかくなるなんて。
──朝ごはん、ちゃんと食べろってか。
ほんと、そういうところだよな。あいつらしい。
その優しさが、嬉しい。
ふと時計に目をやると、思いのほか時間が過ぎているのに気づいた。
「やばっ……」と声に出すまでもなく、急いでスマホを握り直し、指を走らせる。
「やばい、遅刻するわ。もう行くね。では行ってきます」
メッセージを送信して、コートを羽織る。
玄関を出る頃にはもう駅までの道を走る覚悟を決めていたけれど、
心は不思議と軽かった。
一方その頃、まいはキッチンの片隅でスマホを手にしていた。
通知音に気づいてすぐに画面を開き、謙からのメッセージを読んだ瞬間、思わず吹き出してしまった。
「まったくぅ〜、そんなとこが謙なんだからぁ……」
呆れたような、でも心の底から嬉しそうな声がこぼれる。
──でも…よかった。変わってない。
あの頃と同じ、ちょっと不器用で、でもまっすぐで、優しい謙。
まいは胸にぽっと灯るような想いを込めて、返信を打った。
「謙、気をつけて! 慌てないでね。行ってらっしゃい」
タップ。
画面にはすぐに「既読」の文字が表示された。
返事はないけれど、それでいい。
──今ごろきっと、駅まで全力疾走してるんだろうなぁ。
その姿を想像して、まいはまた小さく微笑んだ。
静かな部屋の中に、2人の間だけで交わされた朝の言葉が、あたたかな余韻として残っていた。
それはささやかだけれど、確かに“幸せ”と呼べるものだった。




