表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
310/361

310 【ただ、幸せでいて】


「ただいまぁ」


玄関のドアが開き、香の声が聞こえた瞬間、まいはぱっと立ち上がった。


「おかえりなさい。遅くまでお疲れ様です」


笑顔で出迎えるまいの声には、どこか弾むような明るさがあった。


「まいちゃん、寝ててよかったのに」


そう言いながら靴を脱ぎつつ振り返った香に、まいは嬉しさを隠しきれない笑顔で言った。


「今日、謙とLINEができたんです。なんか、久しぶりに…すごく繋がれた気がして」


その瞳は子どものようにキラキラと輝き、両手を胸の前で軽く握りしめて、小さく頷いていた。

その幸せそうな表情は、香の胸をじんとさせた。


──まいちゃん、本当に嬉しそう…。


純一との話を終えたばかりの香の心には、まいの笑顔があまりにもまぶしく、そして切なく映った。

この数日間、まいがどれほど孤独や不安の中で、それでも懸命に笑顔で日々を過ごしてきたかを思うと――胸が締めつけられた。


酔いも手伝っていたのかもしれない。香はふらりとまいに近づき、そのままそっと彼女を抱きしめた。


「まいちゃんよかったね…本当によかったね……」


そう優しく何度も繰り返しながら、香の頬には静かに涙が伝っていた。


まいは驚いて、香の背中に腕をまわしながら、そっと声をかけた。


「香さん…?どうしたんですか……?」


香は何も言わず、ただまいの小さな背中を包むように抱きしめていた。

まるで、自分の大切な妹の幸せを誰よりも願っている――そんな優しいぬくもりだった。




「……少し落ち着いてきた」


香はそっと息をついて、腕の中のまいから体を離すと、照れくさそうに笑って言った。


「まいちゃん、ごめんね。なんか…酔ってたのかなぁ。ちょっと感情的になっちゃって」


するとまいは、まるで子どもをなだめるような優しい笑顔で首を横に振った。


「全然、大丈夫ですよ。きっと香さん、疲れてるんですよ。今日も遅くまでお仕事だったし……無理しないでくださいね」


その言葉に香は、じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。


「お水、飲みます? それとも、お茶淹れましょうか?」


そう優しく気を配ってくれるまいに、香はふっと力の抜けたように微笑んだ。


「じゃあ……お茶でもお願いしようかなぁ。でも、まいちゃん、いいの? 」


まいはにっこりと笑いながら答えた。


「全然平気です。だって香さんはお仕事してきたんですもん。今は私が動く番です。香さんは、座っててくださいね」


その言葉に、香はふと黙ってまいの背中を見つめた。

小さな体で、自分のことより周りの人を気遣って、こんなふうに笑ってくれる。

悲しい過去を抱えているのに、まいちゃんはいつも前を向いている。


(絶対に……幸せになってね、まいちゃん)


心の中で、香は静かにそう願った。


やがて湯気の立つ湯のみを両手で持って戻ってきたまいが、香の隣にちょこんと腰を下ろした。


「そうだ。私、ゴールデンウィーク明けからお仕事復帰することにしたんです」


まいは目を輝かせて、どこか誇らしげに笑った。


「やっぱりこのままじゃいけないなって思って。ずっと逃げてるだけじゃ、前に進めないし……謙も、記憶がない中でも頑張ってるじゃないですか。だから、私も負けてられないなって」


その言葉に香は驚きながらも、ゆっくりと頷いた。

そう、まいちゃんはちゃんと前を見ている。自分の足で立ち上がろうとしている。

それが香には、何よりも嬉しく、頼もしかった。


「……うん、いいと思う。無理しないで、自分のペースでね」


香はそっとまいの肩に手を置き、あたたかく微笑んだ。


2人の間には、言葉にしなくても伝わる信頼と、静かなやさしさが満ちていた。

湯気の立つ湯のみの香りと、ほんの少し冷えてきた夜の空気の中で、静かに、穏やかな時間が流れていた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


ひとり、自分の部屋に戻った純一は、静かな空間の中で深く息をついた。


けれど、呼吸を整えようとすればするほど、頭の中は謙とまいのことでいっぱいになっていた。

2人の姿が、何度も脳裏に浮かんでは消え、胸の奥がざわついて仕方なかった。


「……なんでだよ。なんで、あんないい奴らが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ」


ポツリとつぶやいた言葉は、誰に向けるでもなく、ただ自分の中に落ちていく。

そのたびに、心が重く沈んでいくのがわかった。

まるで、暗い底なしの湖に引きずり込まれていくように。


だがそれは、刑事としての使命感からではなかった。

もっと素直で、もっと個人的で、もっと人間らしい感情だった。


――友達として、悔しかった。


香から聞いた話で、すべてが繋がった。

まいが抱える想いも、謙が背負っていた過去も。

もし自分が謙の立場だったなら、同じように動いていたかもしれない。

もし自分がまいの立場だったなら、同じように誰にも言わずに、抱え込んでいたかもしれない。


香も、きっとまいのために、あえて何も言わずにここまで見守ってきた。

あの2人は、不器用だけど、ちゃんと大切なものを守ろうとしている。

そのことに、胸が締めつけられるようだった。


それだけに――。


「……あんな奴に、壊されるなんて絶対許せねぇ」


思わず、拳を強く握りしめた。


杉田――。

職権を利用して、歪んだ欲望のままに人を傷つけ、自分の思い通りにならないからと逆恨みして。

それが原因で、大切な2人の人生が踏みにじられようとしている。


謙とまい。

あの、どこまでも優しくて、仲の良い2人を――。

誰よりも幸せになってほしいと願っている2人を、あんな男ひとりに壊されてたまるか。


純一の中で、刑事としてではない、「人」としての怒りが、静かに、しかし確かに燃え始めていた。


この事件は、正義や法のためだけじゃない。

これは――自分と謙にとって、守るべき“絆”の未来がかかっていると考えていた


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ