310 【ただ、幸せでいて】
「ただいまぁ」
玄関のドアが開き、香の声が聞こえた瞬間、まいはぱっと立ち上がった。
「おかえりなさい。遅くまでお疲れ様です」
笑顔で出迎えるまいの声には、どこか弾むような明るさがあった。
「まいちゃん、寝ててよかったのに」
そう言いながら靴を脱ぎつつ振り返った香に、まいは嬉しさを隠しきれない笑顔で言った。
「今日、謙とLINEができたんです。なんか、久しぶりに…すごく繋がれた気がして」
その瞳は子どものようにキラキラと輝き、両手を胸の前で軽く握りしめて、小さく頷いていた。
その幸せそうな表情は、香の胸をじんとさせた。
──まいちゃん、本当に嬉しそう…。
純一との話を終えたばかりの香の心には、まいの笑顔があまりにもまぶしく、そして切なく映った。
この数日間、まいがどれほど孤独や不安の中で、それでも懸命に笑顔で日々を過ごしてきたかを思うと――胸が締めつけられた。
酔いも手伝っていたのかもしれない。香はふらりとまいに近づき、そのままそっと彼女を抱きしめた。
「まいちゃんよかったね…本当によかったね……」
そう優しく何度も繰り返しながら、香の頬には静かに涙が伝っていた。
まいは驚いて、香の背中に腕をまわしながら、そっと声をかけた。
「香さん…?どうしたんですか……?」
香は何も言わず、ただまいの小さな背中を包むように抱きしめていた。
まるで、自分の大切な妹の幸せを誰よりも願っている――そんな優しいぬくもりだった。
「……少し落ち着いてきた」
香はそっと息をついて、腕の中のまいから体を離すと、照れくさそうに笑って言った。
「まいちゃん、ごめんね。なんか…酔ってたのかなぁ。ちょっと感情的になっちゃって」
するとまいは、まるで子どもをなだめるような優しい笑顔で首を横に振った。
「全然、大丈夫ですよ。きっと香さん、疲れてるんですよ。今日も遅くまでお仕事だったし……無理しないでくださいね」
その言葉に香は、じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。
「お水、飲みます? それとも、お茶淹れましょうか?」
そう優しく気を配ってくれるまいに、香はふっと力の抜けたように微笑んだ。
「じゃあ……お茶でもお願いしようかなぁ。でも、まいちゃん、いいの? 」
まいはにっこりと笑いながら答えた。
「全然平気です。だって香さんはお仕事してきたんですもん。今は私が動く番です。香さんは、座っててくださいね」
その言葉に、香はふと黙ってまいの背中を見つめた。
小さな体で、自分のことより周りの人を気遣って、こんなふうに笑ってくれる。
悲しい過去を抱えているのに、まいちゃんはいつも前を向いている。
(絶対に……幸せになってね、まいちゃん)
心の中で、香は静かにそう願った。
やがて湯気の立つ湯のみを両手で持って戻ってきたまいが、香の隣にちょこんと腰を下ろした。
「そうだ。私、ゴールデンウィーク明けからお仕事復帰することにしたんです」
まいは目を輝かせて、どこか誇らしげに笑った。
「やっぱりこのままじゃいけないなって思って。ずっと逃げてるだけじゃ、前に進めないし……謙も、記憶がない中でも頑張ってるじゃないですか。だから、私も負けてられないなって」
その言葉に香は驚きながらも、ゆっくりと頷いた。
そう、まいちゃんはちゃんと前を見ている。自分の足で立ち上がろうとしている。
それが香には、何よりも嬉しく、頼もしかった。
「……うん、いいと思う。無理しないで、自分のペースでね」
香はそっとまいの肩に手を置き、あたたかく微笑んだ。
2人の間には、言葉にしなくても伝わる信頼と、静かなやさしさが満ちていた。
湯気の立つ湯のみの香りと、ほんの少し冷えてきた夜の空気の中で、静かに、穏やかな時間が流れていた。
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ひとり、自分の部屋に戻った純一は、静かな空間の中で深く息をついた。
けれど、呼吸を整えようとすればするほど、頭の中は謙とまいのことでいっぱいになっていた。
2人の姿が、何度も脳裏に浮かんでは消え、胸の奥がざわついて仕方なかった。
「……なんでだよ。なんで、あんないい奴らが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ」
ポツリとつぶやいた言葉は、誰に向けるでもなく、ただ自分の中に落ちていく。
そのたびに、心が重く沈んでいくのがわかった。
まるで、暗い底なしの湖に引きずり込まれていくように。
だがそれは、刑事としての使命感からではなかった。
もっと素直で、もっと個人的で、もっと人間らしい感情だった。
――友達として、悔しかった。
香から聞いた話で、すべてが繋がった。
まいが抱える想いも、謙が背負っていた過去も。
もし自分が謙の立場だったなら、同じように動いていたかもしれない。
もし自分がまいの立場だったなら、同じように誰にも言わずに、抱え込んでいたかもしれない。
香も、きっとまいのために、あえて何も言わずにここまで見守ってきた。
あの2人は、不器用だけど、ちゃんと大切なものを守ろうとしている。
そのことに、胸が締めつけられるようだった。
それだけに――。
「……あんな奴に、壊されるなんて絶対許せねぇ」
思わず、拳を強く握りしめた。
杉田――。
職権を利用して、歪んだ欲望のままに人を傷つけ、自分の思い通りにならないからと逆恨みして。
それが原因で、大切な2人の人生が踏みにじられようとしている。
謙とまい。
あの、どこまでも優しくて、仲の良い2人を――。
誰よりも幸せになってほしいと願っている2人を、あんな男ひとりに壊されてたまるか。
純一の中で、刑事としてではない、「人」としての怒りが、静かに、しかし確かに燃え始めていた。
この事件は、正義や法のためだけじゃない。
これは――自分と謙にとって、守るべき“絆”の未来がかかっていると考えていた




