309 【静かに重なった想い】
仕事を終えて帰宅した謙は、玄関のドアをゆっくりと閉めると、そのままリビングへと向かった。スーツの上着をソファに投げかけ、無造作にネクタイをゆるめながら冷蔵庫の扉を開ける。
中から取り出したのは、いつもの缶ビール。
プシュッ――心地よい音とともに、冷えた泡がふわりと立ちのぼる。謙は缶を手にリビングのスピーカーに向かい、リモコンでお気に入りのプレイリストを流した。いつものUruが部屋を満たしていく。
カーテンをわずかに開けると、遠くに広がる夜の街。ビルの灯りが宝石のように輝いていた。
彼はソファに腰を下ろし、静かにひと口、ビールを喉に流し込む。冷たさが、今日一日の疲れを少しずつ和らげていく。
――まい、今頃どうしてるかな。
ふとそんな想いが胸をよぎる。あの笑顔、あの声が、急に恋しくなった。
「LINEでも送ってみようかな……」
そう呟いた時だった。
テーブルに置いた携帯が、控えめな音を立てて震えた。
謙は驚きつつ手を伸ばし、画面を覗き込む。そこに表示されたのは、まいの名前だった。
思わず、口元がゆるむ。
なんだか、少しだけ疲れが吹き飛んだ気がした。
「謙、今、何してるの?
今日、香さんは仕事で遅くなるみたいで、夕食も外で済ませてくるって。
それを聞いたら、なんだか急に謙のことが気になってきて……。
もし忙しかったらごめんなさい」
まいから届いたそのLINEを見た瞬間、俺の胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
変わらず俺のことを気にかけてくれるまいが、そこにいてくれたことが何よりも嬉しかった。
言葉の一つひとつに、まいの優しさと真っ直ぐな想いが込められている気がして、自然と笑みがこぼれた。
「今、ちょうど家に帰ってきたところだよ。
今日は珍しく何の予定もなくてね。とりあえず冷蔵庫からビールを取り出して、一口だけ飲んでみたところ。
実は今、まいのことをぼんやり考えてたんだ。そしたら、ちょうどLINEが届いて……びっくりしたけど、本当に嬉しかったよ」
画面越しに、確かに伝わってくる。
言葉だけじゃない、心がすぐそばにあるような、そんな感覚――
たった数行のやり取りでも、俺たちの距離は確かに繋がっていた。
「謙、仕事はどう? 少しずつ思い出してきた?」
まいから届いたそのメッセージを見て、謙はスマホを片手に、思わず苦笑した。
少しだけ間をおいてから、気負いのない言葉を打ち込む。
『それがさっぱりなんだよね。こんな仕事を自分がやってたなんて、なんだか今でも信じられないくらいでさ』
すぐに、明るい返事が返ってきた。
『ダメだよぉ〜。ちゃんと頑張ってね、謙』
その言葉に、謙は小さく笑った。
たとえ画面越しでも、まいの優しさはいつもまっすぐに伝わってくる。
それだけで、張りつめていたものがふっと緩む気がした。
『冗談だよ。みんな優しく教えてくれてるから、何とかやれてる』
そんな、たわいもないやり取りを交わしながら、ふと気づくと、謙はずっとまいのことばかり考えていた。
まいの声が聞きたい。
まいの笑顔が見たい。
隣にいてくれたらどんなに安心できるだろう……。
そんな思いが、胸の奥からこぼれ落ちそうになって、もう言葉を抑えきれなかった。
『まい……ゴールデンウィーク、どこかで待ち合わせして、ホテルに泊まらないか? 会いたくて……』
書いてしまった瞬間、謙は小さく息を呑んだ。
本当に送ってよかったのか――。
けれど、それでも、この気持ちを伝えたことに嘘はない。
ただただ、会いたかった。
まいのもとに、そのメッセージが届いた。
画面を見つめる指が止まり、心臓が跳ね上がる。
思わず両手でスマホを抱きしめたくなるくらい、嬉しかった。
──言いたかったのは、私のほうだったのに。
最近はずっと、謙のことを思い出さない日はなかった。
声が聞きたい、顔が見たい。
でもそれを言ったら、迷惑になるかもしれない――そんな不安が胸の奥で邪魔をしていた。
けれど、謙のほうから言ってくれた。
まるで心が繋がっていたみたいに、同じ想いが伝わっていたことが、まいにはたまらなく嬉しかった。
そして、画面を見つめたまま、ゆっくりと指を動かした。
『うん……会いたい』
その一言に、まいのすべての想いが詰まっていた。
画面の向こうの謙にも、その温度が、確かに届いていた。
ふたりの距離はまだ少し離れているけれど、心はもう、すぐ隣にあった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その頃、香は純一と会っていた。
場所は、以前に篤志とりっちゃん、そしてこの二人で訪れたことのある、静かで落ち着いた雰囲気の居酒屋。
木の温もりが心地よく、照明もやわらかい。今夜は客も少なく、会話を交わすにはちょうどいい空間だった。
「まいちゃんについて、ちょっと聞きたいことがあるから、今夜会えないか? まいちゃんには内緒で――」
そんなLINEが純一から届いたのは、夕方のことだった。
“なんだろう…?”
胸の奥に、妙な引っかかりを感じながらも、香は店に足を運んだ。
「純一、何? まいちゃんのことって?」
座るなり香が切り出すと、純一は少し手を上げて制するように言った。
「ちょっと待って。まずは頭を整理させてくれ。ビール飲んでから話すから」
そして、無理やり空気を軽くするように、乾いた笑顔を浮かべながら、
「だから、とりあえず――乾杯」
香もジョッキを手に取ったが、胸の内にはモヤモヤが残っていた。
(何を言おうとしてるの? まいちゃんのことって……仕事の話? それとも――)
純一が喉を鳴らしながら勢いよくビールを飲み干す姿を、香は横目で見ていた。
「ギンギンでうまいなぁ〜」
そう言って満足そうに笑う純一を見ても、香の心は落ち着かなかった。
(まいちゃんのことを話すだけじゃない気がする……。なんだろう、この感じ。
わたしに“聞く”ってことは、まいちゃんからじゃ聞けないことってこと?)
香はそっとビールを一口含んだ。
その冷たさが喉を通り過ぎていっても、胸の奥のざわつきは消えない。
視線を向けた先の純一の横顔は、どこか真剣で――だけど、何かを隠しているようにも見えた。
(ねえ、純一――あなた、今夜、わたしに何を話すつもりなの?)
そんな思いを抱えながら、香は言葉を飲み込んで、彼の次の言葉を静かに待った。
「……実はさ、まいちゃんのお姉さんのことなんだけどさ」
純一の言葉に、香は軽く目を瞬いた。
(ああ、そこまで調べが進んできたのね)
けれど動揺は見せない香だった。仕事柄のせいかもしれない。
数日前、まいの秘密を打ち明けられた夜のことを思い出していた。
そのときまいは、自分の姉と謙が交際していたことを打ち明けてくれた。
そして、なぜ今、自分が謙のそばにいるのかも。
香は、そのすべてを胸にしまいながら、静かに純一の言葉を待った。
「事件を追っているうちに、ちょっと気になる情報が出てきてね。
今、その“本当のこと”を知っているのは、謙か、まいちゃんしかいない。
でも謙はまだ記憶が戻っていないから……結局、まいちゃんだけがその事実を知っていると思うんだよ」
香はジョッキに口をつけながら、落ち着いた声で返した。
「ふぅん。それで、何を知りたいの?」
純一は一呼吸置いてから、少し声を落とした。
「……謙とまいちゃんのお姉さん、付き合ってたのかなって思って。
はっきりとは分からないんだけど、関係を疑うような情報が出てきててさ。
正直、どこまで踏み込んでいいのか迷ってるんだよね」
香は、ほぉ…と小さく感心したように笑いながら、肩をすくめた。
「なるほどね。確かに、意外なところまで見えてきちゃうのが捜査だもんね。
でも純一、それが事件とどんな関係があるの? 恋人だったかどうかで、何かが変わる?」
その口調は軽やかで、特別な緊張感もなかった。
ただ少しだけ、まいの気持ちを思いやるような優しさが滲んでいた。
純一は真剣な表情のまま頷いた。
「いや、まだ断定はできないよ。だけど、もしその関係がある人物に知られてしまって何かしらの感情を動かしたとしたら……
その人物が動くきっかけになったと思ってる」
「ふーん、なるほどね。そういう可能性もあるか」
香はあくまで自然体のまま、穏やかに答えた。
心のどこかで、まいの秘密がこれ以上外に漏れていかないように願いながら
「香には、ちゃんと正直に話すよ」
純一は、少し間を置いてから静かに口を開いた。
「今日、謙の上司から連絡があってね。……その人が、あることを話してくれたんだ」
香は何気なくジョッキに口をつけながら、静かに耳を傾ける。
「何年も前の話だけど、その上司がね……ある夜、ひとりで立ち寄った飲み屋で、謙とまいちゃんのお姉さん――麗子さんを見かけたって言うんだ。
2人で座っていて、なんていうか……まるで恋人同士のように自然な雰囲気だったって。
お互いの距離も近くて、会話も穏やかで。笑い合ったり、何かを語り合ったりしてたみたいでさ。
その上司は、“ああ、このふたり、交際してるんだな”って、その時初めて感じたって言ってた」
純一は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「でも、声はかけなかったらしい。
邪魔しちゃいけない気がして、そのまま静かに店を出たってさ。
きっと、謙も麗子さんも職場には内緒にしてたんだろうな……って。
上司としては、そのことをあえて掘り返すつもりはなかったらしいんだけど――
今回の事件に関わっているかもしれないって思って、俺に話してくれたんだ」
香は、その話を聞いて、ゆっくりと視線を落とした。
心の中で、静かにつぶやく
「やっぱり純一すごい刑事なんだなぁ……」 と。
だけど今、純一の捜査の中でそれが表に出はじめたことに――不思議な静けさと、少しのざわつきを感じていた。
なぜなら——
まいちゃんが、「自分の口から、必ず謙に話す」と香に約束していたからだった。
あの夜、まいちゃんはぽつりぽつりと胸の内を打ち明けた。
姉・麗子と謙の関係、そしてその死にまつわる真実……
麗子の最後の言葉……
香は驚きながらも、まいちゃんのあの涙…揺れる気持ちを受け止め、何も言わずにただ寄り添った。
だからこそ香は思っていたのだ。
この大切な秘密は、誰か第三者の口から謙さんに伝わってしまってはいけない。
謙さんの心がきちんと準備できたその時に、まいちゃんが自分の言葉で語るべきだと。
それが、2人にとって何より誠実で、きっと一番いい形だと信じていた。
——けれど今、純一の口から少しずつ真実に近い言葉が語られていく。
このまま彼が核心に触れてしまうのなら――
香は迷いながらも、思い始めていた。
純一にはきちんと話しておいた方がいいのかもしれない。
それもまた、まいちゃんを守るために必要なことなのかもしれない、と。
純一は、ジョッキをそっとテーブルに置き、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「まいちゃんさ、前に言ってたんだよ。お父さん、すごく厳しい人だったって。でもその分、すごく愛情が深くて、大切に育てられたって、少し寂しそうに笑ってた」
香は静かに耳を傾けながら、まいの話す姿を思い出していた。
優しさの裏に、少しだけ影を落とした表情。きっと彼女なりに、父親の想いをわかっていたのだろう。
純一は続けた。
「だからだと思うんだ。たぶん、麗子さんも…父親を心配させたくなかったんだろうな。
きっと、謙との関係も言い出せずに、こっそり会っていたんだと思う。
職場でも誰一人として、そのことに気づいてなかったらしいよ。
…それだけ、2人で静かに、大切に育てていた関係だったんじゃないかな」
言葉の端々から、純一の中にある「知ってしまった切なさ」が滲んでいた。
香は胸の奥が少しだけぎゅっとなるのを感じながら、その言葉を受け止めた。
純一は、ジョッキをそっとテーブルに置き、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「…だけど逆に、誰にも知られなかったことが、今回の事件の発端だったのかもしれない」
そう言った純一の口調は、どこか慎重で、それでいて重い。
香は思わず顔を上げた。
「えっ?なんで…?誰にも迷惑かけてないはずなのに……」
思わずそう口が出た。
謙と麗子の関係は、誰にとっても責められるものじゃない。
むしろ、秘密にしながらも静かに愛を育んでいた2人を思えば、胸が締めつけられるような気持ちにさえなる。
純一は少し息を吐いてから言葉を継いだ。
「麗子さんの上司だった男がね…彼女に、必要以上に近づこうとしていたらしい。
好意っていうより、執着に近いものだったんじゃないかって…そんな話が出てきた。
だけど、その男は2人が付き合ってるなんて知らなかった。だから余計に、どんどん踏み込んでいって…」
香の背筋に、じわりと冷たいものが走った。
「…まさか……」
「うん。謙が、その男と話をしたんだ。彼女に迷惑をかけないでくれって。だけど、話はうまくいかなかった。逆に感情を逆撫でしてしまったらしい。結果、その男は会社を辞めた」
純一の声には、どこか怒りと無力さが滲んでいた。
「そしてな……今起きているすべての始まりが、そこからだった。
あの男は、いまだに謙のことを恨んでいるらしい。まるで、自分の人生を奪われたみたいに」
香は、言葉を失って座ったまま固まった。
そんな理不尽な逆恨みが、謙さんに降りかかっていたなんて――。
「…そんなの、自分勝手すぎる……!そいつが悪いだけじゃない。謙さんは、何も悪くない……!」
香の目には怒りと悲しみが滲んでいた。
彼女の中の優しさが、理不尽な事実をどうしても受け入れられずにいた。
純一は静かに頷いた。
「そうだよ。普通なら、誰だってそう思う。でも……その男は“普通じゃなかった”んだよ」
その一言が妙に静かで、けれど重く香の胸に響いた。
ゾッとするような不穏な予感が、香の中にゆっくりと広がっていった――。
香は、グラスの水をひと口含むと、しばらく黙ったまま視線を落としていた。
その間にも、頭の中ではまいの顔が何度もよぎっていた。――あの時、震える声で秘密を打ち明けたまいの姿を、忘れることなんてできない。
それでも――。
香はそっと顔を上げた。その瞳には、静かな決意が宿っていた。
「純一、絶対犯人捕まえて!許せない…」
「あぁ、絶対にな」
「純一……私、まいちゃんから聞いたこと……全部話すね」
言葉にすることで、自分の覚悟を確認するように、ゆっくりと。
「でも、これだけは約束してほしいの。
この話をまいちゃんにも、謙さんにも、絶対に言わないで。
彼女……“自分の口から謙さんに伝える”って決めてるの。
その時が来たら、全部、自分で話すって。
たとえその結果が、どんなに悲しいものになっても――それでも彼女は、自分の想いを貫こうとしてるのよ」
そこまで言って香は小さく息を吐いた。胸の奥に溜めていたものを、ようやく解き放つように。
純一は黙って香を見つめていた。香の目から、一切の迷いが消えていることに気づいたからだ。
彼女が今どんな思いでここまでの言葉を絞り出したのか……
そして静かに、しっかりと頷いた。
「……わかった。約束する。誰にも言わない。香が話すなら、俺はその覚悟を受け止める」
その言葉に、香はようやく肩の力を抜いたように、小さく頷いた。
そして彼女は、グラスをそっとテーブルに置いた後、まるで時間を巻き戻すように、あの夜の記憶を思い出すように、静かに、そして丁寧に時間をかけて純一に話していった……
店内に流れる音楽は、やがてゆるやかにトーンを落とし、店のざわめきもどこか遠くなっていく。
グラスの氷が小さく音を立て、時間だけが穏やかに流れていく。
外の夜空はいつのまにか深い藍色に染まり、街の明かりが静かに揺れていた。
言葉を交わすたびに、香と純一の間の空気は少しずつ変わっていく。
夜は静かに、そして確かに――ゆっくり、ゆっくりと更けていった……。




