307 【消えた記憶の中の揺るがぬ意志】
橘は、先ほど佐藤からかかってきた電話の内容が頭から離れず、その詳細を直接聞こうと人事部へ足を運んでいた。
廊下を進んでいくと、ちょうど向こうから歩いてくる謙の姿が見えた。人の波の中でも、どこか落ち着きのない様子が感じられた。
「謙、ちょっといいか?」
橘が声をかけると、謙はすぐに立ち止まり、少しビックリしていたが表情を緩めた。
「あぁ、大丈夫」
そう返した謙は、近くにいた同僚に軽く手を挙げながら言った。
「ちょっと出てくるから、あとよろしく」
同僚も軽く頷き返す。
そのやりとりのあと、謙は橘の方を振り返り、言った。
「俺、仕事ないようなもんだから」
どこか照れたような笑みを浮かべ、冗談めかして言う。
二人はそのまま並んで歩き出し、病院内の廊下を抜けて、静かな休憩室へと向かった。
それは、落ち着いて話をするにはちょうど良い場所だった。
ふたりは休憩室の奥にある長椅子に並んで腰を下ろした。外の喧騒が届かない静かな空間だった。
「純一、お疲れ様」
謙が軽く息をつきながら声をかける。
「おぉ、そちらこそお疲れ」
純一も柔らかな笑みを浮かべながら答えた。
「今日動き出したなぁ。大変だっただろう…」
「まぁなぁ…」
しばし沈黙が流れたあと、純一がふと思い出したように訊ねた。
「まいちゃんに、ちゃんと連絡してやってるか?」
その問いに謙は小さく首を振りながら、少しばつが悪そうに目を伏せた。
「いや……調べなきゃいけないことが多すぎて、なかなか連絡できてないんだよな。悪いと思ってるんだけどさ」
純一はその様子を見て、少しだけ表情を和らげながら言った。
「そっか。でも、もう少しで全部終わる。あとちょっと、辛抱してくれればいいから」
「ああ、わかってる」
謙は短く、けれど力強く頷いた。
少しだけ世間話をして
その後、純一の口調が少し真剣なものに変わった。
「それとな……あんまり無茶すんなよ、一人で背負い込みすぎるなってこと。杉田――あの男は、いまだに行方がつかめてない。何を考えてるか読めないだけに、余計に危険だ」
謙はそこで、自分がその名前に今朝触れたことを思い出した。
「今朝、課長から杉田って男の話を少しだけ聞いた。元はうちの社員だったらしいな」
「そうらしいな。謙は……そいつのこと、覚えてるか?」
謙は小さく息を吸ってから、ゆっくりと首を横に振った。
「正直、記憶はない。ただ……課長と話した時にな、なぜか一瞬、どこかの倉庫みたいな場所の映像が頭に浮かんだ。理由もわからないけど、妙に引っかかったんだよ。……でも、それだけなんだけどな」
純一はその言葉にうなずきながら、わずかに顔を曇らせた。
「俺たちも今、杉田の過去や動きを洗ってるけど……結構ヤバいやつかもしれん。頭が切れるタイプで、やることが読めない。何を狙ってるのか、まるで靄の中にいるみたいでな。……だから余計に心配なんだよ、お前のことが」
その言葉に謙は少し驚いたように純一の顔を見た。
「ありがとう。いつも気にかけてくれて」
「何言ってんだよ、当たり前だろ。俺は――お前が無事でいてくれたら、それでいい」
そんなふうに言葉を交わしながら、ふたりはゆっくりと立ち上がった。
「さて、そろそろ佐藤さんに話聞きに行くか」
純一が言うと、謙も苦笑しながら背伸びをして応えた。
「俺もそろそろ戻らないと、怒られちまうな」
「――あぁ、いけねぇ。忘れてた。これ、ほら」
突然、純一がポケットからひとつの携帯電話を取り出し、謙に手渡した。
「……何これ? 携帯?」
謙は驚いた表情を浮かべながら、手のひらに乗ったその端末を見つめた。見慣れたスマートフォンとは少し違う、頑丈な作りのようにも見える。
「そう。普通の携帯じゃない。警察専用の特殊な端末なんだ」
純一は落ち着いた口調で続けた。
「横にあるこのボタン、見えるか? それぞれ割り振られた番号があってな。押せばすぐ警察に繋がるようになってる。謙からの通報だってすぐにわかるし、もし電話に出られなくても、GPSでお前の居場所はすぐに把握できる。万が一のためにな」
謙はしばらくその携帯を見つめてから、小さく頷いた。
「……すごいな。なんか、そこまでされると逆に怖くなってくるけど……ありがとな」
「それだけお前が危険な立場にいるってことだ。しばらくは絶対に手放すなよ。肌身離さず持っててくれ。あ、ちなみにまいちゃんにも同じやつを渡してあるから、安心しろ」
「そっか……。なんか、何から何まで世話になっちまってるな」
謙が苦笑混じりにそう言うと、純一は軽く肩を叩きながら笑った。
「気にすんなって。友達だろ。それに、お前が無事でいてくれないと俺も困るんだよ」
謙はその言葉に、少しジイーンときてしまった
心の中に、わずかだが確かな安心感が広がっていくのを感じていた。
「何から何まで悪いなぁ」
「気にすんなって」
ふたりは笑いながら休憩室を後にし、並んで歩きながら人事部へと向かった。
その背中には、互いへの信頼と、静かな覚悟がにじんでいた。
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謙は自分のデスクに戻り
橘は、人事部の一角にある佐藤課長の執務室の前で立ち止まった。
ドアの前で一度息を整え、静かにノックする。
「どうぞ」
中から落ち着いた声が返ってきた。
橘は丁寧にドアを開けると、控えめに一礼して室内に足を踏み入れる。
「お忙しいところ、申し訳ありません。先ほどのお電話の件、少し詳しくお話を伺いたくて」
「いえ、大丈夫です。どうぞ、そこに座ってください」
佐藤は穏やかに応じながら、橘に向かって手を差し伸べるように椅子を促した。
橘は礼儀正しく再度軽く頭を下げ、佐藤の正面に静かに腰を下ろした。
だがその胸の内では、先ほどから引っかかっていた違和感が脈打つように波立っていた。
――この話の中に、謙の過去に関わる決定的な手がかりがある。そんな予感がしてならなかった。
佐藤は机の上に置かれた書類を軽く横に避けながら、少しだけ沈黙を置いた。そして、どこか遠くを見るように語り出す。
「正直に言いますと、私も全容はまだ把握できていません。ただ……思い出される場面が、いくつかあるんです」
橘は言葉を挟まず、じっと耳を傾けた。
「高木くんと、あの杉田。彼らが対立していたのは確かです。そして、その中心には……“朝比奈麗子さん”の存在があったように思えてならないのです」
その名が口にされた瞬間、橘の脳裏にまいの顔がよぎった。
(まいさんの姉……彼女もまた、この物語の核心にいる人物だ)
「おそらくですが、高木くんと朝比奈さんは、互いに真剣な交際をしていたのだと思います」
佐藤は、言葉を慎重に選びながら続けた。「外から見ていても、その距離感は特別なものだった」
橘は息をのんだ。
謙は記憶を失っている。だが、その“特別な過去”を覚えていないのは彼だけだ。
周囲は、その記憶が失われたことを口にせず、どこか遠巻きにしてきたのではないか――。
「もしかしたら……その関係が、杉田の反感を買ったのかもしれません。あくまで憶測ですが、あの頃から杉田は、どこか尖った様子を見せていた。高木くんに対して、何かしらのわだかまりを抱えていた可能性は否定できません」
橘は、無意識のうちに手を握りしめていた。
それは刑事としての勘だけではなかった。
“謙”という男の過去に何があったのか、その真実に触れなければならない――そんな責任感のようなものが、彼の胸を静かに燃やしていた。
「ありがとうございます。佐藤課長、もしよろしければ……もう少しだけ、あの頃のことを教えていただけませんか」
橘は深く頭を下げ、真摯なまなざしを佐藤に向けた。
佐藤は、その視線を受け止めるように静かにうなずいた。
「もちろんです。私にわかることがあれば、なんでもお話しします」
こうして、謎に包まれていた“過去”の扉が、ゆっくりと開き始めた。
「実は、一度だけなんですが……高木くんと朝比奈さんが一緒にいるところを見かけたことがあるんです」
そう語った佐藤の目は、記憶の奥を辿るようにわずかに遠くを見つめていた。
「場所は、池袋の駅の近くの小さな飲み屋でした。たまたま一人で立ち寄った時、店の奥の席でふたりが向かい合って静かに話していて」
「そうだったんですね」橘は静かに頷いた。
「声をかけようか少し迷ったんですが……すごく自然で、落ち着いた雰囲気でね。恋人同士なんだろうな、と感じて。だからそっとしておこうと思って、そのまま店を出たんです」
佐藤は穏やかに微笑んだが、その直後、少しだけ顔を曇らせた。
「朝比奈さんって、社内でもとても人気があったんです。美人で仕事もできて、どこか芯のある女性でね。でもね……彼女にはひとつ、少し複雑な事情があった」
「複雑な事情、ですか?」
「ええ。彼女のお父さんのことなんです。ものすごく心配性な方でね。彼女が会社を出る時間になると、よく車で迎えに来ていた。しかも毎日のように、なんですよ」
「そこまで…ですか」
「だからおそらく、高木くんとの関係もお父さんには言っていなかったと思います。もちろん、社内にも。彼女自身が周囲に言わないようにしていたんじゃないかな。ふたりは、周囲に知られないように、ひっそりと交際を続けていたんだと思います」
橘は胸の奥に小さな痛みを感じながら、佐藤の言葉に耳を傾けていた。
まいの姉・朝比奈麗子と謙。
その関係は静かで、けれど確かな絆で結ばれていたのかもしれない。
だがその静けさは、同時に危うさもはらんでいたのだ。
「そして……そんな彼女に、強く好意を抱いた男がいた」
佐藤は言葉を選びながら、慎重に口を開いた。
「それが……杉田だったんですね」
「はい。彼は当時、彼女の直属の上司にあたる立場でした。だからこそ、朝比奈さんも簡単には突っぱねられなかった。噂ではありますが、かなりしつこくアプローチしていたと聞いています」
「……彼女は、我慢していたんですね」
「そう思います。彼女は決して弱い女性ではなかった。でも、相手が上司であれば、簡単には断れない。仕事に支障が出ることを恐れていたのかもしれません」
橘はゆっくりと息を吐いた。
表面には出てこなかった、静かで切実な関係性の数々。
そしてその背後に潜んでいた、歪んだ執着。
すべては、表には見えないところで静かに積み重なっていたのだ。
「それで……社内でも、杉田の行動が徐々に問題視されるようになっていったんです」
佐藤の声には、当時を思い出すような重たさが滲んでいた。
「上司という立場を利用して、朝比奈さんに過度に接近していた。その態度が明らかに度を越していて、周囲も次第に気づき始めていました。とはいえ、彼女自身が強く拒絶するような態度を取れなかったこともあり、はっきりと動くことができる人間はいなかったんです。そんな中で……おそらくですが、高木くんが、杉田に直接話をしたんだと思います」
「直接……ですか?」
「はい。ただ、ここから先はあくまで私の推測に過ぎません。でも、間違いなくその直後から、社内の空気が変わったのを覚えています。明らかに杉田の様子がおかしくなった。そして、ある日突然、彼は会社を休み、そのまま辞職という形で姿を消しました」
佐藤は少し言い淀んだ後、こう続けた。
「その頃、高木くんの顔にはひどい痣があって……左頬も、口元も腫れていた。本人は何も語らなかったけれど、あれを見て、みんなが薄々察していたと思います。きっと、ふたりの間に何かがあったのだと。多分、話し合いの場で喧嘩になったんでしょうね」
佐藤が口を閉じると、橘は静かに頷いた。
謙――橘は、佐藤の語ったその流れに心の中で強く頷いていた。
確かな証拠があるわけではない。だが、その一連の話には、不自然な点がほとんどなかった。
「謙……いや、高木さんはきっと、誰かが困っているのを放っておけなかったんだと思います」
橘は、ゆっくりと口を開いた。
「たとえ、それが上司との対立を招くことになろうとも。彼は恐れなかった。きっと、朝比奈さんのために――彼女の尊厳や平穏な毎日のために、真っすぐに動いたんでしょうね。たとえ、自分が傷つくことになったとしても」
その言葉には、確信に近いものが込められていた。
橘の中で、謙の姿が少しずつ、だが明確な輪郭を持って浮かび上がっていく。
橘は続けて語った
「当時、ふたりが本当に付き合っていたのか、それとも友人としての関係だったのか――それは、もう誰にもわからないかもしれません。でも、謙が彼女のために動いたという事実だけは、きっと間違いない」
橘は深く頷いた。
「彼は……人として、そういう男なんだと思います」
そう語る彼の中には、謙という人物を理解しているからだった。
この過去が、今の謎とどう繋がっていくのか。
そして、杉田の中でどんな感情がくすぶっていたのか。
物語は静かに、しかし確実に核心へと近づいていく気配を漂わせていた。




