306 【記憶の中の閃光】
謙が病院に到着すると、いつもとは違う空気にすぐに気がついた。
ロビーや廊下では職員たちがどこかそわそわと落ち着かず、普段なら静かな朝の病院内に、妙な緊張感が漂っていた。
「……なんだ、この騒ぎは」
小さく呟きながら、謙は足早に人事部のあるフロアへ向かった。
しかし、そこもまた落ち着きのない雰囲気に包まれていた。
電話の着信音や、同僚たちの小声での会話が飛び交い、いつも以上に慌ただしい。
そのとき、武井が慌てた様子で謙のもとに駆け寄ってきた。
「高木さん、大変です! ちょっとヤバいですよ……!」
「どうした、何があった?」
「警察が来るって話です。総務部で、なんか汚職が疑われてるって……朝からその噂でもちきりなんですよ」
謙は一瞬、言葉を失った。
冷静を装いながらも、心の中ではその時がついに来たかと思った。
「武井、それ、確かな情報か?」
「いや、まだ噂の段階ですけど……関係者はみんなソワソワしてます」
「……分かった。ちょっと佐藤課長のところに行ってくる」
そう言って、謙は自分のデスクにカバンを置き、足早に人事部長である佐藤の部屋へ向かった。
何かが起ころうとしている――そう直感していた。
「佐藤さん、おはようございます」
謙が部屋の扉をノックしながら声をかけると、デスクに座っていた佐藤が顔を上げた。
「おぉ、高木くん。どうしたんだ? こんな朝早くから」
謙は一歩中に入り、少し声を潜めて話を切り出した。
「……今、ちょっと噂を聞いたんですが。警察が来るって話、本当ですか?」
佐藤は一瞬だけ目線を逸らし、深く息をついた。そして、静かにうなずいた。
「……多分、そうなると思うよ。まだ正式な連絡は来てないが、もう時間の問題だろうな」
その言葉に謙は内心で息を呑んだ。やはり、事態は動き出していた。
「そう……なんですね……」
少し間が空いたあと、佐藤がふと思い出したように尋ねてきた。
「ところで、高木。総務部の山口さんって、知ってるか?」
その名前が出た瞬間、謙はわずかに目を見開いた。思わず「えっ」と驚きの声が漏れた。
「どうした? 何かあったのか?」
佐藤が鋭い目で訊ねる。
謙は小さく頷いてから、昨日の出来事を思い出しながら話し始めた。
「……はい。実は昨日のお昼休みに、食堂で偶然見かけたんです。向こうはひとりでランチしてたんですが、なぜか俺の方をじっと見てきて。しかも、目が合った途端に視線を逸らしたり、またチラチラ見てきたりして……。あからさまに俺の様子を伺ってる感じでした」
その言葉を聞いた佐藤は、静かに頷いた。目の奥に、重い考えが宿っているのがわかった。
「やはり……そうか」
「何かあったんですか?」
謙が重ねて訊くと、佐藤はゆっくりと語り始めた。
「多分、それと前後してだと思うが……俺も昨日、たまたま山口さんとエレベーターで一緒になったんだ。そしたら急に、『高木くん、復帰したんですね』って、他人事みたいに言ってきてな。言い方も妙に引っかかってさ」
「……復帰、ですか」
「そうだ。なんというか、あれは情報を引き出そうとしてる感じだった。会話の中でも何度もお前のことを話題に出そうとしてきたし、俺にはあいつが“探ってる”ようにしか見えなかった」
謙は黙ったまま考え込んだ。山口という男が、
何か裏の意図を持って自分を監視していた……。
「……実は昨日の夕方のことなんです」
謙は静かに切り出した。佐藤は黙ってうなずき、続きを促す。
「仕事が終わって帰ろうとした時、エレベーターホールで山口の姿を見かけたんです。何気なく気になって後を追ったら……病院の裏手の駐車場に向かって歩いていきました」
謙はその時の情景を思い出しながら話す。
「山口は誰かと話しているようでした。相手は、白いワーゲンに乗った男――車の窓は開いていなかったんですが、山口は運転席の男と小声で何かをやり取りしていたように見えました」
佐藤が少し驚いた様子で
「……その男の顔は?」
謙は首を横に振った。
「それが……車に乗ったままだったので、はっきりとは見えませんでした。でも、山口と話していたことは間違いありません」
「……それで?」
「しばらくして山口さんは立ち去り、ワーゲンもゆっくりと走り出しました。俺は柱の陰に隠れて様子を見ていたんですが……その車が俺のすぐそばを通った時、運転席の男がこちらを見て、ふっと微笑んだんです」
佐藤は目を見開き、小さく息を吐いた。
「微笑んだ……?」
「あの時は顔まではわからなかった。でも、目が合って……確かに、笑っていたんです。皮肉とか挑発とか、そんな類の笑いじゃなくて……どこか余裕を感じるような。まるで『お前の動きは全部わかってる』って言われてるような、そんな感じでした」
佐藤は黙ったまま顎に手を当て、しばらく考え込んでいた。やがて、低く重い声で呟いた。
「……山口は完全に繋がっているな。白いワーゲンの男……」
「高木、あの白いワーゲンに乗っていた男だが……多分、いや、おそらく間違いない。それは杉田だ」
佐藤の声には、確信に満ちた重みがあった。
「……杉田、ですか?」
謙は思わず聞き返した。聞き慣れない名前のはずなのに、なぜか胸の奥がざわついた。
「あぁ。実は少し前にも、病院の駐車場で奴を見かけたことがあるんだ。その時は偶然だと思って声はかけなかったが……今になって考えると、おかしいよな。あいつが病院の駐車場にいる理由なんて、何もないはずだからな」
佐藤は少し遠くを見つめるような目で、当時の記憶を辿っているようだった。
「杉田はな、昔この病院で働いていたんだ。お前も——そう、記憶を失う前の話になるが——一時期、同じ部署で一緒に仕事をしていたはずだ」
その言葉に、謙は驚きで思わず目を見開いた。
「……元、同僚なんですか?」
「そうだ。ただ、奴はいろいろとトラブルを抱えていた。金の問題もあったし、人間関係でも揉めていたらしい。結局、内部でも持て余されて辞めていった。本人の希望というより、追い出されたに近いかもしれんな」
佐藤の語気には、当時の複雑な思いが滲んでいた。
「今は……確か、製薬会社で働いてるって聞いたことがある。製薬会社と繋がってるとなると……病院と製薬会社の一連の関係、あいつが中で糸を引いてる可能性もあるな」
謙の中で、ぼんやりとしていた点と点が少しずつ線になって繋がりはじめていた。
佐藤の言葉を聞いた瞬間、謙の胸の奥に、かすかな緊張が走った。
「……一緒に、働いていた……?」
思い返そうとするが、霧がかったような記憶の奥に手を伸ばしても、その先には何も掴めない。だが確かに、心のどこかが反応している。
冷たい水に指を沈めたような感覚。思い出すことを拒んでいるようでいて、同時に、何かが扉の奥で音を立てている。
その時だった。
一瞬、脳裏に浮かんだ。
——薄暗い倉庫のような空間。
誰かと口論している。
怒号。背後から強く腕を掴まれ、振り返ると、怒りに満ちた男の顔——
杉田。
その名前が、感情よりも先に、鮮明に浮かんだ。
謙は、息をのんだ。
その映像はほんの一瞬の閃光のようで、すぐにまた霧の中に沈んでしまったが、確かに存在していた。
「……佐藤さん、俺……杉田の顔を見て、なんか胸の奥がギュッと締めつけられるような感覚があったんです。はじめて見る顔のはずなのに、知らない気がしなかった」
佐藤は頷き、静かに言った。
「記憶ってのはな、戻そうとすればするほど逃げるもんだ。だが、ある日突然、何かの拍子に戻ることもある。高木くんの中に、ちゃんと残ってるんだよ。杉田に何をされたのか、それとも……何かを見てしまったのかは、それは私にはわからんがな」
謙は、口を閉じて静かにうなずいた。
今、胸にあるこのざわつきが、すべての鍵になる。そんな予感がした。
佐藤の目が真剣さを増す。
「警察が動くということは、それだけこの病院の中でも何かが明るみに出ようとしている証拠だ。高木くん、君の身辺にも注意しておけ。何があるかわからん」
謙は静かに頷いた。
「……わかりました」
こうして、佐藤との短いやり取りの中で、謙は自分がすでに事件の渦中に深く入り込んでいることを、あらためて実感したのだった。




