305 【それぞれ思う朝】
俺はゆっくりとコーヒーを口に運びながら、黙って考えていた。
胸の奥でじんわりと広がる苦味が、今の心境をそのまま映しているようだった。
頭の中をよぎっていたのは、さっき純一から言われた言葉。
「あの白いワーゲンの男が、すべての元凶かもしれない」――。
もし、あの男がすべての歯車を狂わせた原因なのだとしたら。
そして今、追い詰められたあいつが、何をしでかすかわからないとしたら……。
純一は「気をつけろ」と言ってくれた。
つまり、今後何かが起きる可能性があるということだ。
それは、俺の身にも――。
病院の中でも、きっと緊張が走っているだろう。
特に、裏の帳簿や人の出入りを把握している総務部は、今ごろ焦っているに違いない。
それでも、気がかりは消えない。
「俺は、これからどうすればいいのか?」
純一たち刑事がここまで事件の輪郭を掴み、犯人逮捕の一歩手前まで迫っている今、
果たして俺はこのまま、ただ見ているだけでいいのだろうか?
コーヒーの湯気が静かに立ち昇る中で、
自分の心の声に、ただ黙って耳を澄ませていた。
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特別捜査本部の一室。
重苦しい空気のなか、刑事たちが会議室の長机を囲むようにして座っていた。捜査会議が始まる直前、1課長が席から立ち上がり、前へと歩み出る。
「紹介する。今回の件を、これまで地道に、そして慎重に追ってきた2人だ」
課長の声が部屋に響く。
一歩前に出たのは、橘と栗原だった。
「橘警部補、栗原巡査部長。君たちのこれまでの捜査の内容を、ここにいる全員に共有してくれ」
課長の言葉に、橘が静かに頷く。そして資料の束を手に、会議室前方のホワイトボードへと向かう。
「皆さん、今からお話しする内容は、バラバラに見えていた複数の事件が、実はすべて一本の線で繋がっている、という重要な情報です」
橘の声は落ち着いていたが、その目には強い確信が宿っていた。
栗原が手元の資料を刑事たちに配りながら、橘はホワイトボードに事件名を書き並べていく。
「まず最初に、総合医療グループ内で発生した4件の交通事故。これらは偶然ではなく、いずれも内部の職員が巻き込まれていた。しかも、その犠牲者が“ある問題を調べていた人物”でした」
続いて、橘は声のトーンを少し落としながら話を続ける。
「次に、事故の加害者たちが次々と命を落としている件。さらに昨夜の不審火事件、そして湯川という男を狙った殺人未遂。これらすべてが、ある“人物”によって動かされている可能性がある。しかもその人物が自らの手で運転をして全て事故を起こした事も証言をえた.先に述べた井上、湯川、丸川、藤村は全ての事故の替え玉の可能性がある」
刑事たちの間にざわめきが走る。橘はその空気を受け止めながら、最後に言った。
「そして、数日前に北海道で発生した銃撃事件……これもまた、同じ名前が捜査線上に浮かび上がっている」
捜査員たちがどよめいた.
「そいつがその期間、会社を休んでいた事が分かった。後は羽田から新千歳に向かったかどうか調べてほしい。
あちらからの連絡ではバイクは盗難車でバイクはすぐに見つかったとも報告を受けている。」
一同が固唾をのんで耳を傾けていた。
橘と栗原の2人は、ばらばらに見えていた事件群の線を1本に束ね、静かに核心へと迫っていく。
その場にいた誰もが、この事件の背後にある闇の深さと、これからの捜査の重みを実感し始めていた。
橘と栗原の説明が終わると、一瞬、会議室の空気が静まり返った。
刑事たちはそれぞれ配られた資料を見つめ、黙ったまま考え込んでいる。ホワイトボードには、赤と青のマーカーで複雑に結びつけられた事件の相関図が、まるで蜘蛛の巣のように描かれていた。
「……つまり、我々が相手にしているのは、単なる個人犯罪ではなく、組織ぐるみの隠蔽と、長期間にわたる一連の事件ってことですか?」
ベテラン刑事の一人が、重い声で問いかける。
橘は頷いた。
「そうです。特に、医療機関と製薬会社との癒着、そしてそれを隠すために何人もの命が奪われてきた可能性がある。事件は思っている以上に根深い。慎重に、しかし確実に追い詰めなければならない相手です」
「……こんな規模の事件を2人で……」
若手刑事のひとりが、息を呑んで呟いた。
栗原は静かに言葉をつなぐ。
「特別捜査本部が動いた今が、勝負です。裏帳簿や指示系統が見つかれば、一気に動ける。ですが――犯人は、追い詰められるほど危険な行動に出る可能性がある」
橘の目が鋭くなった。
「だからこそ、全員で慎重に、しかし連携を崩さず動くことが大切だ。情報の共有、現場での判断、全てが鍵になる」
その言葉に、刑事たちは深く頷いた。
しばらくの沈黙のあと、1課長が椅子から立ち上がった。
「橘、栗原。ご苦労だった。引き続き、捜査の軸は君たちだ。現場班と裏帳簿班で分けて動く。杉田鉄也の確保を最優先事項とし、同時に病院と製薬会社への強制捜査を進める」
「了解しました」
橘が力強く返事をし、栗原も静かに頷いた。
会議が解散になると、刑事たちは一斉に席を立ち、それぞれの持ち場へと動き始めた。
橘と栗原は、部屋の片隅で短く視線を交わす。
「篤志……ここからが本番だな」
「ええ。逃がすわけにはいきません」
廊下へと出るその背中には、刑事としての強い覚悟がにじんでいた。
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俺はゆっくりと身支度を整えながら、深く息を吐いた。
シャツのボタンを一つひとつ留めていく手元とは裏腹に、頭の中は騒がしい。
白いワーゲンの男――あの不気味な笑みが、今も焼き付いて離れない。
やつがまた現れたら。
もし俺に危害を加えてくるようなことがあれば……その時は、今度こそ容赦しない。
これまでの借りは、すべて返す。
それがどんな形になろうとも、俺はもう目をそらさないと心に決めていた。
けれど、今はまだ動くときじゃない。
純一たちが着実に、奴を追い詰めてくれている。
俺が動いても、何も変わらないどころか、邪魔になるかもしれない。
それでも――
俺はクローゼットの奥から、そっと警棒を取り出した。
もちろん、使うつもりじゃない。
ただ、もしもの時に、自分と誰かを守るため。
そっと、上着の内ポケットに忍ばせる。
そこに重さはあるが、不思議と心は落ち着いた。
「頼むから……使わずに済みますように」
自分でも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
時計を見ると、そろそろ出る時間だ。
俺は玄関のドアを開けた。
冷たい朝の空気が頬を撫で、ほんの少しだけ目が覚める。
あとは、ただ祈るような気持ちで玄関を後にした。
今日が、波風の立たない一日であることを願いながら。
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灯りひとつない、息が詰まるほど暗い部屋。
湿った空気が壁にしみつき、窓の隙間からはわずかな外の光が、かすかに床を照らしていた。
その片隅に、ひとりの男がうずくまっていた。
黒いパーカーのフードを深くかぶり、顔はほとんど見えない。
だが、わずかにのぞいた口元は、ひきつるように歪んでいた。
「……高木……」
掠れた声が、静寂を裂いた。
それは誰に届くでもない、狂気に染まった独り言。
「……あいつさえ……あいつさえいなければ……」
「……全部、全部あいつのせいだ……!」
男は膝を抱えながら、だが指先はギリギリと床をかきむしるように動いていた。
その爪の先から血がにじんでいるのも気づかぬまま――いや、気づいていても、それすら快感のように受け入れているかのようだった。
「全部、あいつのせいだ……俺の人生を壊したのは……高木……」
「……あいつさえ、消えていれば……俺は……俺は……」
「高木……あいつだけは……絶対に……殺す……この手で……」
その声には感情が欠落していた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、底知れぬ闇と、冷たい決意だけがにじんでいた。
静まり返った部屋の奥で、狂気が静かに育っていた。
まるで、誰にも見つからない場所で、地の底から這い出そうとしている何かのように――。




