303 【一本の線】
朝。
まぶたをゆっくりと開けると、カーテンの隙間から差し込む淡い光が、部屋をぼんやりと照らしていた。
いつものように寝ぼけ眼のままベッドから体を起こし、伸びをしながらテレビのリモコンに手を伸ばす。
スイッチを押すと、画面にはすでに朝のワイドショーが映し出されていた。軽快な音楽と、やけに明るいアナウンサーの声。どこか慣れ親しんだ朝の光景だった。
洗面所へと歩きながら、俺はいつものように歯を磨き始めた。
歯ブラシを口にくわえながら、洗面台の鏡越しにテレビの音がなんとなく耳に入ってくる。
「……昨夜、東京・板橋区で発生した住宅火災。出火の原因は現在も調査中ですが、不審火の可能性が高いと見られています」
火事か――。ふと、ぼんやりとした意識の中でその言葉が引っかかった。
なんとなく、歯磨きをしながらテレビの画面を覗き込むと、火に包まれた家の映像が繰り返し流れている。煙と炎、慌ただしく動く消防隊員たち。
画面の下には「板橋区・深夜の火災」と見出しが出ていて、そのすぐ横に被害者の名前がテロップで映し出されていた。
――丸山妙子さん(42)
その名前を見た瞬間、手の動きがふと止まった。
丸山妙子……どこかで聞いたような……。
歯ブラシを口にくわえたまま、俺は小さく眉をひそめて画面を見つめた。
なんだっけ……その名前。
最近聞いたような……いや、ずっと前か……。
考えがまとまらないまま、俺は歯をゆすぎ、台所へ向かって電気ポットのスイッチを入れる。
小さな音を立てて水が温まりはじめる音を聞きながらも、さっきの名前が頭の中に残り続けていた。
――丸山妙子。確かに、どこかで聞いたことがある。
だけど、思い出せそうで思い出せない。
俺はふと立ち止まり、再びテレビに目をやった。
ニュースの続報が流れはじめていた――。
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その頃、まいも朝の支度を終え、香を玄関まで見送りに出たところだった。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
軽やかな声と一緒に手を振ると、香が笑顔で応えて出かけていく。
まいは静かになった部屋へ戻ると、ソファに腰を下ろし、いつものようにテレビのワイドショーをつけた。
カップに入れた温かい紅茶からは、ほんのりと甘い香りが漂っている。
テレビからは火事の映像が流れており、アナウンサーが「昨夜遅く、板橋区内で住宅火災があり……」と伝えていた。
まいはその言葉に反応し、ふと顔を上げる。
「板橋かぁ……最近、なんだか事件が多くない?」
独りごとのように呟きながら、空になった朝食の皿をキッチンに運んだ。
皿を水に浸けながら、まいは思う。
前はもっと静かだった気がするのに――最近は少し、空気がざわついているような気がする。
けれど、朝の日差しはやさしく、食器を片付ける彼女の動きもいつもと変わらない穏やかさだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
謙はまだぼんやりとした頭で、沸かしたての湯をカップに注いだ。
スティックタイプのコーヒーをかき混ぜながら、テレビのワイドショーに目をやる。
「……昨夜未明、板橋区内で住宅火災が発生。女性一人が死亡しました。現場では……」
アナウンサーの声が、朝の静けさに溶け込むように流れていた。
カップを持ったまま立ち尽くし、映像を何気なく眺めていたその時だった。
テーブルに置いていたスマートフォンが、不意に震える。
着信表示には「純一」の名。
時間は朝7時を少し回ったところ――この時間にしては、妙に早い。
「……もしもし」
受話器越しに聞こえてきた純一の声は、いつになく緊迫していた。
「今、テレビつけてるか?」
「ん? あぁ、ついてるよ。ニュース見てたところだ」
謙が答えると、少し間をおいてから純一が続けた。
「火事のニュース、見たか? ……あれ、例の事件と関係ある。加害者の一人、やられた」
その言葉に、謙は持っていたカップをそっとテーブルに置いた。
背筋に、薄く冷たいものが走る。
「……やられた? まさか、殺されたってことか?」
「ああ。不審火だが、ほぼ放火で間違いない。おそらく、あの白いワーゲンの奴の仕業だ。……謙、今あいつは焦ってる。何をしでかすかわからない。お前もくれぐれも気をつけろ」
白いワーゲン――
謙の脳裏に、昨日のあの冷たく笑っていた男の顔が浮かぶ。
“何かを見透かしているような”あの笑みの意味が、今になって重くのしかかる。
「……もう、あいつってわかったのか?」
「まだ特定はできていない。だが確信はある。現場付近でも似た車が確認された。いずれにせよ、ここからが正念場だ」
謙はしばらく沈黙したあと、低く短く答えた。
「……わかった。気をつける。ありがとう、連絡くれて」
「何かあったらすぐに知らせろよ。じゃあな」
電話が切れる。
カップからは、まだ湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。
けれど謙の中では、さっきまでの穏やかな朝はもう消えていた。
不気味な笑み、白い車、燃えた命。
すべてが一本の線でつながっていく――
そんなに遠くない先に奴とやるのかもなぁ……
そんな感覚が、胸の奥で確かに芽生えはじめてていた。




