295 【前を向くその一歩】
まいは、静かな部屋の中で一度深呼吸をしてから、そっとスマートフォンを手に取った。
画面を開いて、登録された純一の名前をタップする。
コール音が数回鳴っただけで、すぐに純一が電話に出てくれた。
「もしもし、まいちゃん?どうしたの?
あぁそうだ.、おにぎりありがと、皆んなすごく喜んでたよ.美味しいってね」
相変わらず穏やかで、どこか安心感を与えてくれる声。
「本当ですか?良かったです。喜んでもらえて嬉しい。」
まいは少し緊張しながらも、はっきりとした声で伝えた。
「あとですね、今日、午後から会社に挨拶に行こうと思っていて……。少しだけなんですけど、顔を出してこようかなって」
受話口の向こうで、一瞬の間があった。
そして純一が、優しい口調で返してくる。
「うん、大丈夫だよ。家に戻らないっていう前提なら、問題ないと思う。
でも――あの携帯だけは、絶対に肌身離さないでね。何かあったら、すぐ連絡できるようにしておいて」
まいはその言葉に、静かにうなずいた。
「はい、ちゃんと持って行きます。ありがとうございます」
自然と、声にも前向きな力が込もっていた。
「頑張ってね、まいちゃん」
純一の声には、応援と信頼の気持ちがしっかりとにじんでいた。
まいは、小さな声で「はい」と答えた。
電話越しでも、純一の優しさは変わらずまいの心を支えてくれる。
ふと、純一が尋ねてきた。
「謙とは……連絡、取れてる?」
まいは少し頬を染めながら、小さく笑った。
「少しだけですけど、繋がってます」
ほんの短いやり取りでも、謙と繋がっていられることが、今の自分の心を支えているのだと、まいは感じていた。
その答えに、純一は微笑むような声で言った。
「……そっか。良かったね」
その言葉が、まいにはとても嬉しかった。
素直に祝福してくれる純一の気持ちが、心にあたたかく染み込んでくる。
電話を切ったあと、まいはソファから立ち上がった。
「よし、準備しよう」
少し前の自分では考えられなかった、自然な前向きさが自分の中にあることに気づいて、まいはそっと微笑んだ。
まいはゆっくりと息を吸い込み、少し緊張しながらスマートフォンを手に取った。
画面に「納税課」と登録された番号をタップする。
呼び出し音が数回鳴り、「はい、市役所納税課です」という聞き慣れた、けれど久しぶりの声が耳に飛び込んできた。
「朝比奈まいと申します。恐れ入りますが、納税課の堅木課長はいらっしゃいますか?」
「少々お待ちくださいませ」と丁寧に言われ、保留音が流れる。
懐かしいオルゴールのような旋律に、まいは一瞬目を閉じた。
この音さえ、なんだか懐かしく、心の奥が温かくなる。
やがて、保留音がふっと途切れた。
「……まいちゃん?朝比奈さん?元気だった?もう、大丈夫なの?」
その声に思わず胸がじんとした。
穏やかで優しくて、まるで時間が巻き戻ったようだった。
電話の主は、納税課の女性上司・堅木課長だった。
「はい、なんとか……ご心配をおかけして申し訳ありません」
まいは少し照れくさそうに笑いながら応じた。
「ううん、謝ることなんてないわよ。大変だったわよね」
堅木はまいの声に安堵をにじませながら言葉を続けた。
「それで、今日はどうしたの?」
「今日の午後、一度、ご挨拶に伺いたいと思って……少しだけ顔を出させていただけたらと」
「もちろん、大歓迎よ。無理のない範囲でね。何時ごろになりそう?」
「午後の2時前後には着けると思います」
「わかったわ。みんなもまいちゃんのこと心配してたの。顔を見せてもらえるだけでも、きっと安心するわよ」
まいは思わず口元をほころばせた。
電話越しに伝わる職場のぬくもりに、胸がふわっと軽くなった気がした。
「ありがとうございます。今日は本当に、少しだけお邪魔します」
「うん、気をつけておいで。楽しみに待ってるからね」
電話を切ったあと、まいは携帯をそっと置いた。
心の奥に、ひとつ確かな“帰る場所”があると、改めて感じることができた。
そして、もう一歩踏み出す勇気が、自分の中にちゃんと芽生えていることにも気づいていた。
きっと、謙も——こんな気持ちだったんだなぁ。
まいはふと、心の中でそうつぶやいた。
電話を終えたあとも、堅木課長の優しい声が耳の奥に残っていた。
懐かしい声。温かい言葉。自分を待っていてくれる場所がある、そんな当たり前のようでいて、当たり前ではなかった安心感。
自分は、いったいどれほど恵まれていたんだろうと思う。
そして、その気持ちが胸の奥をあたためると同時に、自然と謙の姿が思い浮かんだ。
前、職場に行った時のこと謙が話してくれた、周囲の人たちへの感謝の気持ち——
「俺なんかに、みんなが優しくしてくれて……ありがたかったよ」
あのときの、少し照れくさそうに笑った謙の顔が、今はすごく鮮明に思い出せた。
そうか、謙もこんなふうに思ってたんだ。
自分を気にかけてくれている人たちがいること。
何気ない日常の中で、自分の存在を受け入れてくれる場所があるということ。
そのありがたさが、どれほど深く心に沁みたのか。
まいは窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
謙の感じていた“孤独の中の温もり”が、今なら自分にもわかる気がした。
「うん、私も負けてられないな」
小さく自分に言い聞かせるように声を出す。
謙のように、少しずつでも前に進もう。
感謝を忘れず、自分を信じて、また一歩を踏み出そう——そう思えた瞬間だった。




