289 「静かに動き出す時間」
「そろそろ、洋服も取りに行かないとなぁ……」
朝の陽ざしが差し込む部屋の中で、まいはふと思った。
そんな風に、自分の身の回りのことを考えられるようになったことに、少しだけ心が軽くなった気がした。
「今日の午後、行ってこようかな……。純一さんに聞いてみようかな」
橘から預かっていた携帯を手に取ると、まいは画面を開いた。
そこにはあらかじめ登録されていた“橘 純一”の名前。迷わずそこをタップする。
コール音が鳴り始めた。
プルルル……プルルルル……
まもなく、柔らかな声が返ってきた。
「はい、まいちゃん。どうしたの?」
純一の声は変わらず穏やかで、まいの心を和ませた。
「おはようございます。あの……ちょっと、家に戻って洋服を取りに行こうかなって思って……
でも、一応純一さんに確認したほうがいいかなと思って、お電話しました」
「そうだよな。まだ、いつ戻れるかわからないからね」
純一はしばらく考えてから、優しく答えた。
「じゃあ午後に迎えに行くよ。俺が車で一緒に行くから、安心して」
「えっ……でも、そんな忙しいのに……申し訳ないです」
「大丈夫だよ。気分転換したかったし、ちょうどよかった」
「……すみません。ありがとうございます」
「全然気にすんなって。じゃあ、1時ごろに香の家まで迎えに行くよ」
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
「うん、じゃあまた後でね」
そう言って、純一は電話を切った。
画面が暗くなるのを見つめながら、まいはふっと小さく息を吐いた。
少しずつ、日常を取り戻す準備ができ始めている。
それをそっと後押ししてくれる誰かがいる――それだけで、心が温かくなる気がした。
まいはふと立ち止まり、思い立ったように小さく呟いた。
「……純一さんに、おにぎりでも作って持っていこうかな」
ここ最近、何かと助けてもらってばかりで、感謝の気持ちを伝えたかった。自分にできることは限られているけれど、だからこそ、手作りの差し入れくらいはしたいと思った。
そう決めると、まいは迷わずキッチンへと向かった。
手を丁寧に洗い、お米を研いで、炊飯器にセットする。炊きあがりを想像しながら、中に入れる具材を準備していると、ふと手が止まった。
「……謙、ご飯ちゃんと食べてるかな」
心配する気持ちが自然と浮かんできた。
できることなら、彼にもおにぎりを持たせたい。でも──
「ううん、それはちょっと、無理だよね……
今度ちゃんと作って、渡せばいいよね」
自分にそう言い聞かせて、そっと微笑んだ。
そして、まいはスマートフォンを手に取り、LINEの画面を開いた。
「謙に……連絡、してみよう」
昨日までは、どこかで怖がっていた。
だけど今は、少し違う。
怖がるより、話したいという気持ちの方がずっと強くなっていた。
まいは、自分が少しずつ変わっていることを、確かに感じていた。
まいはキッチンでの準備を終えたあと、ふとスマートフォンに目をやった。
「謙、今、なにしてるのかな……」
自然とそんな想いが胸に浮かぶ。
迷いながらも、そっとLINEの画面を開き、慎重に言葉を選びながらメッセージを打ち始めた
送信ボタンを押したあと、まいは小さく息を吐いた。
「謙……読んでくれるといいな」
そう呟きながら、画面を見つめ続けた。
そのまなざしには、どこか安心したような優しい光が宿っていた。
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「みんな、ちょっと聞いてくれ」
課長の佐藤が、フロア中に響くようなはっきりとした声で呼びかけた。
忙しく手を動かしていた社員たちの視線が一斉に佐藤へと向く。
「明日から高木くんが職場に戻ってくることになった。
ただし、本格的な復帰ではなく、まずは仕事に慣れるためのリハビリという形だ。無理のない範囲で、少しずつな」
その瞬間、フロアにぱっと明るい歓声が上がった。
「えっ、本当ですか? 良かったー!」
「もう大丈夫なんですね! また飲みに行きましょうよ!」
「戻ってきてくれて嬉しいです!」
佐藤は笑いながら、手を軽く上げて言葉を続けた。
「まだ話の途中だぞ。よく聞いてくれ。
高木くんは、事故の影響で記憶が完全には戻っていない。
自分が以前どんな仕事をしていたかも、まだ曖昧な部分があるそうだ。
だから、これからしばらくは、みんなで支えていこう。困っている様子があれば、ぜひ相談にも乗ってあげてくれ」
佐藤はその場を高木に譲るように一歩引き、謙に目線を送った。
謙はゆっくりと前に出て、深く一礼をしてから口を開いた。
「長い間、お休みをいただき、本当にすみませんでした。
自分でも、まだ半分しか戻れていないという実感があります。
それでもまた、こうして皆さんと働けることが嬉しいです。
どうか、これからもよろしくお願いします」
すると、後輩の一人がすかさず笑いながら言った。
「なに言ってるんですか、先輩らしくないですよ!」
「本当ですよ。全然大丈夫ですって」
「困ったことがあったら、すぐ言ってくださいね。私たちでサポートしますから」
あたたかい笑い声と、穏やかな拍手が広がる中、謙は少しだけ照れくさそうに頭を下げた。
「ありがとう、みんな…」
謙はそう言ったあと、こみ上げてくる感情を押さえきれず、思わず俯いた。
視界がじんわりとにじむ。涙が、堪えていた心の奥から静かに溢れ出しそうになっていた。
――こんな自分を、あたたかく迎えてくれる人たちがいる。
それだけで、胸がいっぱいだった。
自分のことなど忘れられていてもおかしくない。
それどころか、迷惑をかけていたかもしれないのに。
それでも、彼らは変わらずに声をかけてくれた。
励ましの言葉をくれた。心からの笑顔で、戻ってきた自分を受け入れてくれた。
謙は唇をぎゅっと結び、もう一度頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます」
その言葉には、感謝と安堵と、決意が混じっていた。
こんなに温かい場所を、もう二度と手放したくない――
謙は心の中で、そっとそう思った。
そのあと、佐藤課長に案内され、自分のデスクへと向かった。
どこか懐かしさを感じながら、謙は椅子に静かに腰を下ろす。
――記憶はない。
それでも、この場所の空気、机に手を置いたときの感触、モニターの位置…
体のどこかが覚えているような、そんな気がした。
ふと、その場に立っていた武井が笑顔で近づいてきた。
「やっと帰ってきましたね。
また、遊んでくださいね」
その言葉に、謙は自然と笑みを浮かべて応じた。
「あぁ、こちらこそ。頼むな、武井」
「はい!」
武井は嬉しそうに頷くと、軽やかな足取りで自分のデスクへと戻っていった。
少しの間、その背中を見つめたあと、謙はポケットから携帯を取り出した。
画面を開くと、まいからのLINEが届いているのに気がつく。
そっと画面をタップしてメッセージを開いた――。




