287 「2人の静かな始動】
謙は静かにスーツに袖を通した。
ネクタイをきゅっと締め、鏡の前で身なりを確認する。どこか、心も引き締まるような感覚があった。
身支度は整った。あとは、胸ポケットの内側に、小さく収まる護身用の警棒をそっと滑り込ませる。
それが「万が一」に備えるためのものだとしても、謙の胸の内には――できれば、使いたくない。
本音を言えば、そんなものに頼らない日常を、何もない普通の時間を望んでいる。
だが、そうもいかないことを俺自身がいちばん理解していた。
目線がサイドテーブルの上に置かれたひとつの小さなお守りに向けた。
それをそっと手に取った
星の形のキーホルダーそれは、まいの部屋に行った時に借りてきた謙にとっては何より大切な存在だった。
彼女を想う気持ち、その全てが詰まっているように思えた。
謙はそれを両手で包むようにして、しばらく静かに見つめた。
そして、ごく小さな声で語りかけた。
「まい……行ってくるよ。これが、俺のスタートだ。
過去を知るために、そして未来をつかむために。
絶対に――絶対にまいを、ひとりになんてさせない。
だから、少しだけ待っててくれ。俺、必ず迎えに行くから」
優しく微笑みながら、謙は手に持ったキーホルダーを軽く唇にあてた。願いを込めて…
その仕草は、まるで彼女に約束を交わすかのようだった。
そして、それを胸ポケットへとしまい込む。そこは、心にいちばん近い場所だった。
最後に深く息を吸って、玄関へと歩みを進めた。
ドアを開け、外の空気を感じながら足を踏み出す。
鍵を閉めてから、振り返りもせず前を見据える。
「よし……行くか」
その声は誰に向けたものでもなく、自分自身に喝をいれるような、静かな決意だった。
マンションのエレベーターに乗り込み、ゆっくりと下へ降りていくその時間が、謙にとってはあの生活を取り戻すための一歩
――この一歩が、すべての始まりになる。
まいの笑顔を胸に、謙は静かに動き出した。
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まいは、香を玄関まで見送ったあと、そっと扉を閉めてリビングに戻った。
静かになった部屋の中で、彼女はゆっくりと深呼吸をひとつした。胸の奥に残るあたたかな余韻。それは、香の言葉だった。
――「まいちゃん、昨日話してくれてありがとう。
まいちゃんがずっと悩んでたことを、正直に打ち明けてくれて……本当に嬉しかった。
なんだか、これで本当の意味で親友になれた気がするよ」
その言葉が、今もまいの心に優しく響いている。
香は続けて、こんなことも言ってくれた。
「私だったらきっと、同じことをしてたと思う。
昨夜、まいちゃんの気持ちを自分のことのように考えてみたの。
そしたら、不安な気持ち、苦しさ、すごくよく分かった。
でもね、まいちゃん、あなたは間違ってなんかないよ。
絶対に。謙さんなら、ちゃんと受け止めてくれる。大丈夫だよ」
まいは、その言葉を受け止めながら、何度もうなずいた。
「うん……」と、ただ一言、泣きながら声にならないほどの想いを込めて返した。
そして今朝、香は出勤前の最後に、明るく微笑みながらまいに言った。
「じゃあ、行ってくるね。もう落ち込んじゃダメだからね?」
まいも笑顔で答えた。
「うん、わかった。もう大丈夫だよ」
それは、どこか少し照れくさいけれど、まいの心からの本音だった。
香の言葉は、まいの中にあった不安をそっと溶かしてくれた。
誰かに理解してもらえることがなんて心強く、嬉しいことなんだと感じていた。
まいは窓辺に立ち、空を見上げた。
「ありがとう、香さん……」心の中でそう呟き、頬を伝う風がすごく爽やかで気持ちよかった。
「すれ違ってしまった運命の歯車が、ふたりの選択で再び動き始める日は来るのか――。その行方は、まだ誰にもわからなかった。」




