276 【刑事の勘】
純一はグラスを置き、ゆっくりと謙の顔を見た。
「……さて、謙。今までの話を聞いて、何か思い出したことはあるか? あるいは心当たりとか。」
謙は少し間を置き、目を伏せてから、静かに頷いた。
「……ある。」
「ほう?」
「実は、純一に見てもらおうと思ってたものがあるんだ。」
そう言って謙は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった自分のバッグのもとへ向かった。バッグを開けると、中から分厚い封筒を取り出し、純一の前に差し出す。
「これは……?」
「俺が事故に遭ったときに――記憶を失ったあの日、持っていたバッグの中に入っていた書類なんだ。
正直、ずっと気にも留めてなかった。けど、今日あの騒ぎがあって、急いでここに来る準備をしてたときに、このバッグを手に取った瞬間、ふと中の書類のことを思い出した。」
純一が書類に目を落とすのを見ながら、謙は静かに続けた。
「時間があったから、さっき少し目を通してみた。……そしたら、なんか、違和感があって。」
「違和感……?」
「ああ。日付がね……バラバラなんだよ。書類は去年の2月と3月のものなんだけど、普通なら月ごとにまとめてあるはずなのに、これは明らかに整理されてない。ごちゃごちゃに混ざってて、どれも妙に金額が高い。」
純一の表情が引き締まる。
「金額が高い……それは経費関係の書類ってことか?」
「おそらくな。でも、俺の記憶がまだ完全じゃないから確信はない。
ただ、この書類が正しいかどうか、ちゃんと確認するには、会社で正式なデータと照らし合わせないとわからない。」
「……それがなぜ、お前のバッグに?」
謙は考えながら、どこか答えを探すように天井を見上げた。
「……それがわからない。
俺自身が事故の前に何かを掴みかけていて、自分で持っていたのか。
それとも、誰かがわざと俺に託したのか、あるいは……仕組まれたのか。」
純一が小さく息を吐きながら書類を手に取る。
「中身はコピー? それとも原本か?」
「多分コピーだと思う。ただ、念のためにこれも渡しておく。」
そう言って謙は、バッグの奥から小さなUSBメモリを取り出し、純一の手のひらにそっと乗せた。
「この中にも、同じ内容のファイルが入ってる。俺にはまだ全部調べきれなかったけど……」
純一はしっかりと頷いた。
「わかった。これは俺がしっかり調べる。……謙、お前、やっぱり何か掴みかけてたんだな。」
「……そうかもしれないな。」
ふたりの間に、しばし静かな時間が流れた
「それと……もうひとつ、気になってることがあってな。」
謙は少し表情を曇らせながら、言葉を続けた。
「気になる車があるんだ。」
「車?」
純一が首をかしげると、謙はうなずきながら、静かに話し始めた。
「まいと沼津に行った帰り道、ある白いワーゲンと、ずっと一緒だった。
最初は何とも思わなかった。だけど、高速に乗ってからも、追い越し車線から走行車線に移動しても、他の車を追い越しても……ずっと一定の距離でついてきてたんだ。」
「……偶然じゃないかと思ったのか?」
「ああ。でもそれだけじゃなかった。」
謙は記憶をたどるように、ゆっくり言葉を選びながら話を続けた。
「自宅近くに戻った夜、ダンプと正面衝突しそうになったことがあった。すれすれで避けたあと、さっきの白いワーゲンが俺たちの目の前をスッと通過していったんだ。
そのときも“偶然だ”って、自分に言い聞かせた。白いワーゲンなんて、そこら中にあるしな。」
純一は真剣な表情で黙って聞いていた。
「でも……北海道に行く数日前だったかな。夜、俺のマンションの前に、またその車が止まってたんだ。
“まさか”と思って、部屋に戻ってからベランダから覗いてみたけど、もう消えてた。
……それで、やっぱりおかしいって思い始めた。」
謙は純一をまっすぐに見据えた。
「もしかしたら、あの白いワーゲンの奴に、ずっと監視されていたんじゃないかって。」
その言葉を聞いた純一は、ポケットからスマホを取り出した。
「謙、それ……もしかしたら当たりかもしれない。」
そう言って、純一は画面に映し出された映像を謙に見せた。そこには、まさに白いワーゲンと思しき車が映っていた。
「これ……その車だったか?」
謙は一瞬目を凝らし、じっくりと画像を確認する。
「……間違いない。車はこれだ。」
「人間の方はどうだ?」
「……そこまでは自信がない。御殿場で見かけたとき、運転していたのは、40代から50代くらいの男。中肉中背で、髪は後ろを刈り上げたサラリーマン風。メガネもかけていた。」
純一は頷きながら、画面を閉じた。
「この車の持ち主も関係しているかもしれない。まだ確証はないが……おそらく、すぐに身元はわかる。
もし関わってるなら……この件、想像以上にやはり根が深いかもしれないな。」
刑事の勘が、そう告げていた。




