272 【優しさの奥に眠る牙】
俺はバッグを肩にかけ、静かに部屋を出た。
エレベーターのボタンを押しながら、ふとまいの顔が頭に浮かぶ。
たしかに、今は寂しい。
けれどそれ以上に、彼女が安全な場所にいてくれる――それが何よりも心の支えだった。
この事件が終わるまでは、会わないと決めた。
彼女を二度と危険に晒したくない。
それが、今の俺にできる最大の「守る」という行為だと思う。
まいに逢いたい気持ちを抑えるたびに、早く終わらせなきゃという決意が強くなる。
エレベーターが静かに1階へ到着する。
扉が開き、俺は外の空気を吸い込むようにして歩き出した。
純一の指示通り、マンションの敷地を出て明治通りへ。
信号を渡ってから右へ折れ、巣鴨方面へ向かって歩き始める。
少ししたら、純一が車のクラクションでも鳴らして知らせてくれるだろう。
それまでは、とにかく歩き続ける。
道すがら、ふと後ろを振り返る。
誰かにつけられていないか、念のために確認する。
こんな風に周囲を気にしながら歩くなんて、今までの人生でなかったことだ。
だけど笑い事じゃない。
もしも今、誰かに尾行されているとしたら――それだけ相手が本気で俺の動きを警戒している証拠だ。
自分ではまだ事件の全貌もつかめていないというのに。
それでも、焦ることはない。
このあと純一と話せば、きっと何か見えてくる。
漠然としていた疑念が、少しずつ輪郭を持ちはじめるはずだ。
今はただ、前を向いて進むだけだ。
しばらく明治通りを歩いていると、ポケットの中で携帯が震えた。
ディスプレイに表示された名前は、やはり純一だった。
「もう謙の姿、見えてるぞ。今いるところで止まっててくれ。信号が変わったらすぐそっちに向かうから」
「わかった」
短いやり取りのあと、通話は切れた。
俺は立ち止まり、周囲に目を向けた。夕方の街は人通りもまばらで、静かな空気が流れている。
数秒後、道路の先にウインカーを点滅させながらゆっくりと近づいてくる車が視界に入った。
その動きを目で追っていると、フロントガラス越しに顔が見えた。純一だ。
車は信号を渡った先でスムーズに停車し、まるで時間を計ったかのようなタイミングで俺の前に停まった。
「来たか」
そうつぶやきながら助手席のドアを開け、俺は迷いなく車に乗り込んだ。
謙は助手席に腰を下ろすと、シートベルトを締めながら、静かに言った。
「純一、ありがとな」
純一は前を見据えたまま、穏やかに笑った。
「気にすんなって。何でも言えよ」
謙は一瞬迷うように息をつき、それから意を決したように口を開いた。
「いきなりで悪いんだけど……このまま、まいの自宅まで行ってくれないか?」
純一はちらりと謙を見て、少し驚いた様子で問い返した。
「何か忘れ物でもしたのか?」
謙は首を横に振りながら、静かに答えた。
「いや、そうじゃない。まいの部屋が無事かどうか……確認したいんだ。前に一度だけ、彼女の家に行ったことがある。まいが任意同行された時にね」
「……ああ、あの時か」
純一は思い出したように軽くうなずいた。
謙の表情が少し険しくなる。
「もし、あの時に誰かに尾行されてたとしたら、まいの家の場所も知られてるかもしれない。俺の家みたいに被害にあっていたらって思うと……いてもたってもいられなくて。俺のせいで、あの家まで巻き込まれてたら……申し訳なさすぎる」
真剣な眼差しで語る謙の言葉に、純一はハンドルを握り直しながら力強く答えた。
「……当たり前だろ。そんなの、確認しに行くに決まってる」
そして、にっと笑って言った。
「よし、まずはまいちゃんの家だな!場所、ちゃんと教えてくれよ?」
謙も少し表情を和らげてうなずいた。
「ああ、とりあえず巣鴨の駅まで行ってくれ。そこから案内する」
「了解!行くぞぉ!」
純一はアクセルを踏み込み、車は静かに夕暮れの街を走り出した。
「そういえば、家に来た警察、どうだった?」
純一の問いかけに、謙は少し考えてから正直に答えた。
「……正直、ダメだな。あれじゃ犯人なんて、絶対に捕まらないと思う」
「ん?なんでそう思った?」
「まず、俺が“記憶喪失で部屋の状況を詳しく思い出せない”って言った瞬間さ……担当の警官、あからさまに面倒くさそうな顔したんだよ。顔つきがガラッと変わった。『ああ、こいつ厄介な案件だな』って、目が語ってた」
純一はため息まじりにうなずきながら聞いていた。
「もちろん、鑑識の人たちは真面目に動いてくれてたよ。細かく現場を見て、証拠を探してくれてる感じだった。でも、調書を取ってた担当がとにかくやる気がなくて……まるで“早く帰りたい”って顔に書いてあった」
謙は自嘲気味に笑って言った。
「……すまんな。そういうのばっかりじゃないんだけどな」
「わかってるよ。でも、今回の空き巣はただの物取りじゃない。俺にはそう思えてならない。だから、あの場で詳しく話すのもやめた。撃たれたことも、なぜ撃たれたかも、全部黙ってた」
「それでいい。多分その程度の警官だと理解できずに、本署に連絡して“上からの指示待ち”とか言い出すだけだろうしな」
「だろ?今は時間がもったいないから、必要なことはお前とだけ共有しようと思ってる」
「それが正解だと思う。……でも、本当に大丈夫なのか?その怪我」
「まだ少しつれてるけど、昨日よりはマシだよ。縫っただけだし、1週間後に抜糸すれば平気さ」
純一は運転しながら、懐かしそうな目をした。
「……でもさ、お前、ほんと変わんねぇよな。昔から」
謙は笑いながら首をかしげた。
「そうか? 自分じゃあまり実感ないけどな」
「いや、謙、お前ほんとに記憶喪失か?って思うくらいだわ」
「なんだよ、それ」
純一は声を立てて笑いながら、懐かしそうに続けた。
「まいちゃんには絶対言えないけどよぉ、学生の頃のこと、覚えてないのか? 学校帰りに、恐喝されてた子どもたちがいたの覚えてない?」
謙は首を横に振る。
「いや……ごめん、それも全然」
「そうかぁ……あのときさ、お前が“純一、行くぞ!”って、いきなり駆け出して行っちゃってさ。俺、びっくりして後を追いかけたら、相手が5人もいたんだぜ? 俺、内心『ヤベェ』って思ったけど、でももう行くしかなかった」
「で、めちゃくちゃやられた?」
「いや、逆だよ。お前がめちゃくちゃやっちゃったんだよ。あいつら、なす術なかった」
「マジかよ……」
「そのあと警察が来てさ、俺らも相手も一緒に事情聴取されることになって、人生初のパトカーに乗ったよな」
謙は苦笑いしながら聞いていた。
「で、結局どうなったんだ?」
「恐喝されてた子たちが、ちゃんと状況を説明してくれてさ、俺らが正義だったって話になった。お咎めなし。でもな、そのとき担当した刑事が俺らのことをすごく褒めてくれてさ」
「褒めてくれた?」
「ああ。“これからも頼むな”って、“正義の味方になれよ”ってさ。あれが、俺が刑事目指したきっかけかもな。……ある意味、お前のおかげだよ」
「……そんなことがあったんだな」
「でもな、お前はその頃から“後先考えない瞬間湯沸かし”だったんだよ。正義感が強いのはいいけど、突っ走っちまうんだよな」
純一は笑いながらも、どこか懐かしさと敬意を込めて言った。
謙は静かにその言葉を受け止めながら、遠い記憶の奥底に自分の本質を感じていた。記憶は失っていても、根っこは変わらずにそこにある。そう、純一の言葉が、それを思い出させてくれたのだった。
駅前を過ぎたあたりで、謙は前方を指さした。
「あそこの信号を左。曲がってすぐのマンションだ」
純一はうなずき、指示通りに車を走らせる。そして、マンションの前に静かに車を停めた。
「純一、ちょっと見てくる。何でもなければすぐ戻る」
「わかった。気をつけろよ」
謙が車を降り、マンションの中へと消えていく。その背中を見送りながら、純一はひとりごとのようにつぶやいた。
「謙にも、あの携帯持たせた方がいいかもなぁ……」
彼はフッと笑いながら、前を見つめた。
「関わらないって言ってたくせに……あれ、完全に関わる気満々だな。全く、しょうがない奴だよ……これ、香やまいちゃんにバレたらどうやって俺、誤魔化せばいいんだか。言い訳……全然想像できないぞ?」
そうつぶやいたあと、苦笑いが自然とこぼれた。まるで、弟の無鉄砲さを見守る兄のように。
一方、謙はマンションの階段を静かに上がり、まいの部屋の前で足を止めた。
静かな廊下に、自分の心音が響いている気がするぐらいに……
扉を前にして、ふと足がすくんだ。
――もし、中が荒らされていたら。
――もし、あの温もりのある空間が壊されていたら。
そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられるような痛みに襲われた。
まいの部屋は、謙にとって“癒し”の象徴だった。
あの柔らかいソファ、窓から差し込むあたたかな光、甘すぎないけれど優しい香り。彼女の笑い声が、静かな部屋に残っているような気がする、そんな場所だった。
その空間が壊されているのを見たくない。今の自分には、その現実を受け止める余裕がないかもしれない。
それでも――。
謙は静かに息を吸い込み、鍵を差して、扉をゆっくりと開いた。
……中は、静かだった。
そして、廊下を歩いてゆっくり扉を開けると…
目に映ったものは以前と変わらぬ穏やかな空間がそこにあった。
ほのかにまいの香りが残るリビング。いつも通りの場所に置かれたクッション。綺麗に整ったキッチン。全てが、あの日のままだった。
「……よかった」
謙は、小さく呟いて部屋をゆっくり見渡した。荒らされた形跡も、誰かが侵入した痕跡も見当たらない。まいの空間は、守られていた。
安心したのも束の間、ふと視線がドレッサーの上で止まる。
そこにあったのは、星を模ったシルバーのキーホルダー。まいらしい、少しだけ可愛らしくて、でもどこか大人っぽいデザインだった。
謙は、そっとそれを手に取る。
金属の冷たさが手に馴染む感覚。だが、不思議とそれが、心に温もりをもたらした。
「……これ、借りていこう」
謙は静かに呟いた。
これはただのキーホルダーじゃない。今の自分にとっては、“まい”そのもののように思えた。柔らかく、あたたかく、でも時に凛として強い。彼女の存在を感じる小さな証――。
再会できた時に、返そう。
でも、それまでの間、これは俺のお守りだ。
彼女の笑顔を思い出したい時、心が弱くなった時、きっとこの小さな星が俺を支えてくれる。そんな気がした。
キーホルダーを胸ポケットに入れると、謙は部屋を出て、扉にしっかり鍵をかけた。
もう一度振り返り、静かに頭を下げる。
「まい……守ってみせるからな」
その決意とともに、謙は階段を降りて、待っている純一の元へと向かった。




