268 【静けさにまいの小さな優しさに気づいた午後】
片付けは、まだ道半ばだった。けれど、ひとまず床に散らばっていた物を拾い集め、家具の位置も元に戻し、テーブルの上も何とか整えた。足の踏み場は確保できたし、見た目にはずいぶん片付いたように思える。
とはいえ、細かいホコリや割れたものの破片など、まだまだやるべきことは山積みだ。とりあえず今日はここまでにしよう。そう思ってリビングに掃除機をかけ、一区切りをつけた。
ソファに腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せた。静かになった部屋の中で、ふと目に入る家具や小物たち。それらが本来の場所に戻っているにも関わらず、どこか違和感が拭えなかった。
“何かが足りない”——そう感じた。
それは空間のバランスや色合いではない。ただ、そこにあったはずの“ぬくもり”がなくなっていたのだ。無造作に並べられた物たちは、まるで心を失ったかのように沈黙し、部屋全体が冷たく感じられた。
ああ……そうか。
謙は気づいた。
この部屋が温かかったのは、物の配置や色合いのせいじゃない。まいが、時間をかけて一つひとつ楽しそうに選び、飾ってくれたからだった。どんな小物にもまいの想いが込められていて、それが“優しさ”として空間に漂っていたのだ。
今はその気配が、跡形もなく消えてしまっていた。
自分の部屋であるはずなのに、まるで別の場所にいるような…
まいと別れて、まだほんの数時間しか経っていないはずだった。
けれど、その短い時間は、やけに長く感じられた。
季節がひとつ過ぎたような、時の流れがどこか歪んでしまったような――
そんな感覚だった。
さっきまで隣にいたはずなのに、もう何日も会っていないような気がする。
心にぽっかりと穴があいて、そこから時間が静かに、けれど確実に流れ出していくようで。
たった数時間。それだけのはずなのに。
彼女の笑顔も、声も、温度も、思い出の向こう側にあるように思えてしまう――。
この部屋の温もりがすっと消えたのは、きっとまいがここからいなくなったから――
そう思うと、少しだけ胸が締めつけられる。
散らかっていたものを片付け、元通りに戻したはずなのに、何かが決定的に違っている。
光の入り方も、テーブルの上の静けさも、全部が少しだけ遠く感じるのは、きっと彼女の気配がそこにないからだ。
何気ない日常の中で、まいはこの部屋にたくさんの笑顔と優しさを置いていってくれた。
それがどれほど大きなものだったか、こうして一人になって初めてわかった。
彼女がいた時間……
また、笑い声の似合う空間に戻せるように――
そう俺は願った……




