263 第三章 「はじまりの嘘…封じられた記憶に隠されたパンドラの箱」
【怒り】
ひとりきり、マンションの前に立つ。
無意識のうちに、自分の住む階の窓を見上げていた。
あの部屋に、今夜からしばらく一人なんだ……
そんな実感が、胸の奥に静かに沈んでいく。
「さて…行くかぁ。」
誰に言うわけでもなく小さく呟き、片手に荷物を持ってゆっくりとエントランスへ歩き出す。
指先で操作すると、エレベーターはすぐに到着した。
中へ乗り込み、慣れたようでどこか重たく「22」のボタンを押す。
扉が静かに閉まり、ゆっくりと上昇を始めた。
22階……
まいと一緒にいる時は、いつもあっという間だった。
たわいもない話をして、笑って、肩が触れ合って、目が合って。
その時間は、秒針さえ早回しになったかのように感じていたのに。
今は、違う。
静まり返ったエレベーターの中で、無音が耳にしみる。
階を示すランプの光だけが、淡々と数字を刻んでいく。
こんなにも長かったんだな、22階までの時間って。
誰かが隣にいてくれること、それがなくなるだけで、こんなにも空気が冷たく感じるとは思わなかった。
胸に広がるこの静けさは、ただの“ひとり”ではない。
これは、まぎれもなく“孤独”だ
まいのいない部屋が、どれほど静かで、どれほど広く感じるのか。
まだ扉を開けてもいないのに、その寂しさがじわりと胸を締めつけた。
チーン。
エレベーターの到着を告げる乾いた音が静かに響いた。
22階——目的のフロアに着いた。
謙は荷物を持ち直し、重たい足取りで廊下を歩く。無意識にため息が出る。
このドアを開けたら、本当に“ひとりの時間”が始まるんだ——そう思うと、心がぐっと重たくなった。
部屋の前に立ち、鍵を差し込む。
カチャリと音がして扉が開いた。
そこには、誰もいないはずの玄関。
けれど、ふと目に入った“それ”に、謙は一瞬、思わず立ち止まった。
下駄箱の扉が半開きになっていた。
「……あぁ、まい……」
自然に、ふっと笑みがこぼれた。
あの日、まいと俺は慌ててたもんなぁ〜
きっと靴を取り出したまま、扉を閉める余裕もなかったんだなぁ……
何気ないその光景に、まいの存在がふと蘇る。
あたたかな気配。あの小さな仕草。思い出すたびに、胸が痛む…
一人きりになったはずの玄関に、まだ彼女の“かけら”が残っている気がして、それが少しだけ心を和らげてくれた。
「とりあえず、荷物だけ置いて、椅子に座るかぁ……」
玄関にバッグを置き、リビングに向かい部屋の扉をそっと開ける。
…その瞬間。
「……っ、なんだ、これ……」
何が何だかわからなかった。
だが、次第に目の前に広がった光景に、謙の表情がだんだん凍りついていった。
綺麗に整頓されていたはずのリビング。
まいと過ごした、あのぬくもりの残る空間が、まるで悪夢のように変貌していた。
家具が乱雑に動かされ、ソファのクッションは床に散らばり、棚の本や書類は引きずり出されたまま散乱。
引き出しは全て開きっぱなし、ガラスの置物が割れて破片が床に飛び散っている。
足の踏み場もないほど、荒れ果てていた。
謙の中にあった“孤独”という静かな悲しみは、一瞬にして“怒り”へと変わった瞬間だった。
「……誰だ、誰がこんなことを……!」
こみ上げる怒りに、拳が震える。全身に怒りが行き渡り、心臓が暴れるように打ち続けていた。
頭の奥が真っ白に……
悲しさや寂しさは、もうどこかへ消えていた。
「……ざけんなよ!……」
目の前の光景は、まさに地獄。
代わりに胸の奥から噴き出すのは、強烈な怒り
怒りが、体の奥底から噴き出した。
「……誰だ……どこのクソ野郎だ……!!」
拳を握りしめ、息が荒くなる。
俺がいないのをわかってて、好き勝手にまいと俺の部屋を荒らしていった。
盗みなんかじゃない。
“誰かがこの部屋に入った。俺がいない間に、何かを探しに。”
何かを。俺にしか知らない何かを。
そしてそれは、偶然の侵入ではない。
何かを知っている人間が、何か目的を持って
「上等だ……ちきしょう、なめやがって……」
孤独なんて感情は、今この瞬間、かき消えた。
胸を満たしているのは怒り。復讐心。
誰だ。誰が、何のために——
まだ見ぬ“敵”か。
もう、逃げる理由もない。怯える理由もない。
まいは安全な場所にいる
もう心配する事は何もない。
全部暴いてやる。全部ぶち壊してやる。
謙の視線には、抑えきれない怒りが潜んでいった。
皆さま、『消えた記憶と愛する人の嘘』をお読みいただき、誠にありがとうございます。
第1章では、記憶を失った謙のもとに現れた一人の女性――舞子との出会いを中心に描きました。彼女の優しさに戸惑いながらも、次第に心を許し惹かれていく謙。その揺れ動く心を、丁寧に追いかけたつもりです。
続く第2章では、舞台を北海道に移し、ふたりの距離がぐっと近づいていく様子を描きました。旅先でのささやかな出来事や言葉のひとつひとつが、互いの存在の大きさを気づかせてくれます。
ここまで読んでくださった皆さまに、少しでも彼らの心の動きが伝わっていたら嬉しく思います。
そしていよいよ、第3章が始まります。
止まっていたはずの運命の歯車が、再び動き出します。
謙の過去が少しずつ明らかになり、事件の真相へと物語は加速していきます。
優しさの奥に潜んでいた“牙”が顔をのぞかせ、穏やかだった日々が少しずつ揺らぎ始めます。
謙は何を思い、何を選ぶのか――
そして、舞子の“嘘”の本当の意味とは。
どうぞ、第3章もご期待ください。
これからも、応援よろしくお願いいたします。
茅ヶ崎渚




