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252 【そっと差し出されたぬくもり】


俺たちはホテルのフロントでチェックインを済ませ、無言のままエレベーターへと向かった。

まいの横顔にはまだ不安の色が濃く残っていて、その視線が時折、俺の腕へと向けられているのがわかる。


エレベーターのドアが閉まり、密室の中に二人きりになると、まいがぽつりと口を開いた。


「謙……本当に痛くないの?」


その声には、優しさと同時に、どこか怯えにも似た心配が滲んでいた。


「うん。痛み止めが効いてるから、今は全然感じないよ」


笑顔を作って答えたつもりだった。

けれど、実際は痛み止めの効果も少しずつ薄れ始めていて、ズキズキとした痛みが腕の奥からじわじわと広がっていた。

指先を少し動かすだけでも鈍い痛みが走る。それでも、これ以上まいを不安にさせたくない。だから俺は平気なふりをした。


――きっとバレてるんだろうけどな。


エレベーターが「チン」と控えめな音を鳴らして6階に到着し、静かに扉が開いた。

まいは黙ったまま先に降り、廊下をゆっくりと歩き始める。

俺はその背中を追うように、少し遅れて足を進めた。


彼女の肩越しに、ささやかな緊張が伝わってくる。

それでも、まいの手が迷いなくカードキーを差し込んで扉を開けたとき、その仕草にほんの少し安心を覚えた。


「謙、先に入って」


まいはドアを開けたまま、俺が通り過ぎるまでしっかり支えてくれていた。


「ありがとう」


小さく礼を言い、俺は部屋の中へと足を踏み入れる。

まいも続いて中に入り、ゆっくりとドアを閉めると、内鍵を丁寧にかける音がカチリと響いた。


その音が、今夜だけは何よりも心強いセキュリティに思えた。

まいの心配を少しでも和らげるためにも、俺はできるだけ、いつも通りに振る舞おうと心の中で思った。


俺たちは部屋に入ると、そのまま無言でソファに腰を下ろした。

クッションの沈み込みが、思った以上に柔らかくて身体が少し沈む。


しかし、部屋の中は静まり返っていた。

空調の微かな音が耳に届くほどで、お互いに何を話そうか、どう切り出そうかと、気まずさではなく「言葉を選ぶ慎重さ」が空気を支配していた。


そんな沈黙を破るように、俺はポツリと口を開いた。


「まい、テレビでもつけようか」


「うん……」


その返事も、どこか少し安心したような声だった。

俺自身、テレビが見たいわけじゃなかった。ただ、無音の空間に何か音が欲しかった。少しでも気が紛れるように。心が落ち着くように。


リモコンを手に取り、適当なチャンネルをつけると、バラエティ番組のにぎやかな声が部屋に広がった。

それだけで少し、空気が和らいだ気がした。


「謙、何か飲む? 冷蔵庫に色々入ってるみたいだよ」


キッチンの方を見ながら、まいが優しく尋ねてくる。


「ビールがあれば……ビール、飲みたいな」


「……謙、大丈夫? 怪我にさわるんじゃ……」


少し心配そうな顔を見せるまいに、俺は苦笑しながら答える。


「なんかさ、今日は飲みたい気分なんだ。痛くなったら痛み止めもあるし……ダメかな?」


まいはしばらく黙って、俺の顔をじっと見つめていたが、やがて小さく笑って


「……しょうがないなぁ。一本だけだからね」


「ありがとう。まいは?」


「うーん……私も、一本だけ付き合うね」


冷蔵庫から缶ビールを取り出したまいは、俺の分と自分の分をそっとテーブルに置いた。

今夜は「乾杯」なんて言える雰囲気じゃない。

だから俺は無言のまままいの缶を開けて手渡し、自分の缶も開けて、そのままぐっと一口、喉に流し込んだ。


冷たい炭酸が胸の奥にまで染み込んでくる。

少しだけ、身体の緊張がほぐれていく気がした。


「まい、そういえば……お腹、すいてない?」


ふと思い出して尋ねると、まいは小さく頷いた。


「うん……そうだね。朝から何も食べてなかったもんね」


彼女の声には、ほんの少しだけ笑って見せた


「もうすぐ食事の時間だよね」


まいがそう言って俺を見る。

その表情に、ほんの少しだけ日常が戻ってきたような、そんな気がして——俺はビールの缶を手に、そっと笑みを浮かべた。



「まい、そういえば……ここの夕食って、どんな感じなんだ?」


俺がふと尋ねると、まいは少し間を置いて、視線を落としたまま答えた。


「……洋食にしてたの。コース料理で……ちょっとおしゃれな感じ」


言葉のトーンがいつもより静かで、どこか申し訳なさそうだった。


「謙、まずかったよね。ナイフとか使えないでしょ、右手……」


そう言って、まいはかすかに笑ってみせた。

でもその笑みはどこか無理をしていて、ほんの一瞬でしぼんでしまう。


「いや、大丈夫。何とかなるよ。そんなの気にしなくていいって」


俺が軽く笑いながら言っても、まいの表情はあまり変わらなかった。

むしろ、その言葉が逆に彼女の胸を締めつけたのかもしれない。


「……本当はね」

まいはぽつりと呟くように言葉を続けた。

「今夜は、最後の夜だから……落ち着いて旅を振り返って、のんびり語り合ったりできたらなって、そんなふうに思ってたの」


言い終えると、まいは視線を窓の方に向けた。


「もう……こんな夜になっちゃったね」


その声はかすかに震えていて、笑おうとしてもうまくいかない彼女の心の内が伝わってきた。

無理に元気にしようとしているのが痛いほどわかって、俺は何も言えなくなった。


沈黙が流れたあと、俺はそっと言葉をかけた。


「まいがここにいてくれて……それだけで、俺は十分だから」


まいはうつむいたまま、小さくうなずいた。

その肩がほんのわずかに揺れているのが見えて、俺はただそばにいることしかできなかった。



まいと俺は、ホテルの最上階にあるレストランへと向かった。


エレベーターを降りると、

廊下に漂う香ばしい料理の香りと、しんとした夜の空気が不思議と心を落ち着けてくれる。


まいが受付に静かに歩み寄って、小さな声で俺の右腕の怪我について伝えた。

すると受付の女性はすぐに笑顔でうなずき、穏やかな声で答えてくれた。


「大丈夫ですよ。お食事は召し上がりやすいようにご用意いたしますね」


その優しさにまいの表情が少しだけ柔らかくなった。

そして俺の方を振り返って、そっと微笑みながらそのことを教えてくれた。


「良かったね、食べやすくしてくれるって」


「そうか、それは助かる」


案内された席は窓際で、夜景は真っ暗なので夜は何も見えない大自然、朝はきっと素晴らしい景色なんだろうと感じだ。


ドリンクの注文を聞かれて、俺はまいの顔を見ながら言った。


「せっかくだし……ワインでも飲まない?」


まいは一瞬だけ驚いたように目で、それから心配そうに問いかけてきた。


「謙、大丈夫?お薬もあるんでしょ?」


「最後の夜だからさ。まいと、ゆっくり話がしたい」


そう言って笑うと、まいは少し黙ったあと、小さく「うん」とうなずいた。


俺たちはおまかせで1本ワインを頼むことにした。

しばらくして、ウエイターがロゼのボトルを持ってやってきた。


「本日のお料理には、こちらのロゼワインがよく合います。ベリー系の香りが立っていて……」


丁寧に説明してくれていたが、正直、俺にはさっぱりだった。

とりあえず知ったふうにうなずいて、合間に適当な相槌を打つ。


その様子を見ていたまいが、ふっと笑った。

久しぶりに見る自然な笑顔だった。


ワインがグラスに注がれ、ウエイターが席を離れると、まいがいたずらっぽい目で俺に尋ねた。


「ねえ、さっき頷いてたけど……本当に知ってたの?」


「知らん!」

俺は思わず笑って答えた。

「ワインなんて、カリフォルニアワインくらいしか知らんし」


その瞬間、まいは少しだけ微笑んだ。


けれどその笑みには、どこか落ち着いた品がある様に俺には映った

今日一日、いやこの数時間の緊張がようやく少しほぐれたように見えた。


「やっと……笑ったな」


俺がそう言うと、まいは何も言わずに、また優しく、微笑んだ。


テーブルにロゼワインの柔らかな香りが漂う中、俺はまいの瞳をそっと見つめた。



グラスを軽く持ち上げながら、俺は口を開いた。


「……いろいろあったけどさ、北海道って、やっぱりいいところだな。最後の件は無しだけどそれ以外は」


静かに言葉を紡ぐと、まいはほんの少しだけ頷いた。

「うん」と短く答えた。


けれど、それ以上の言葉は続かなかった。

口を開こうとしては閉じ、まるで心の奥で何かを押しとどめているようだった。


その沈黙に、俺はそっと視線を落とす。


きっと今は、まいの方から話すのは難しい。だからこそ、俺がこの空気を変えなければ……。


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