245 【風のガーデン】
俺がまいに、素直な気持ちを伝えたあと、
それを受け止めたまいは何も言わず、ただ静かに窓の外を見つめ続けていた。
その横顔は穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。
普通なら、この沈黙に気まずさを感じてしまうかもしれない。
けれど、今の俺たちには、この静けさが必要なんだと感じた。
言葉ではなく、ただ同じ時間と景色を共有する――
そんな静かな時間こそが、今のまいと俺を、ゆっくりと癒してくれている気がした。
広大に広がる北海道の大地が、沈黙ごと優しく包み込んでくれるようで、
心の奥に残っていたざらつきや痛みを、静かに、そして確かに、吸い取ってくれているような感覚があった。
もしかすると、まいも同じように感じているのかもしれない。
これまでの出来事を胸の中でそっと振り返りながら、
この自然に身をゆだね、言葉ではなく“感じる”ことで、今を受け入れようとしているのかもしれない。
そう思うと、俺はもう何も言わず、ただハンドルを握ったまま、
Uruの曲をぼんやりと聴きながら
まいと同じ、心の奥で静かに見つめていた。
車は穏やかに北の大地を走り続けた。気づけば、もう3時間ほどが経っていた。
その道中、まいと一緒に、いくつもの素敵な風景に出会った。
どこまでも続く青空と緑の丘に、思わず息を呑んだり、
牧場を駆ける馬の姿に、2人で「すごい!」と興奮して声を上げたり。
さらには、道路の脇にひょっこり現れた野生のキツネに、まいが驚いて笑いながら「かわいい!」と叫ぶ姿もあって、
小さな出来事のひとつひとつが、まるで旅に彩りを添えるようだった。
そんな思い出を胸に抱えながら、車はようやく最初の目的地、
富良野プリンスホテルの駐車場へと滑り込んだ。
ハンドルから手を離しながら、俺はそっと深呼吸をした。
北海道の旅は、まだまだ続く――そんな期待が、胸にふわりと膨らんでいた。
まいにはまだ伝えていなかったから、俺の行動に少し戸惑ったのかもしれない。
車を降りると、まいが俺の方を見て、いたずらっぽく微笑んだ。
「謙、もしかして……もう、“ゆっくり・す・る・の”?」
言葉を区切ってからかうように言うまいの表情に、思わず苦笑いがこぼれた。
「違うよ」と俺はすぐに否定して、「まいに見てもらえたら喜ぶかなって思ってた場所が、このホテルの敷地内にあるんだ」
まいは少し驚いたように目を丸くしてから、にこりと笑った。
「そうなんだぁ。私、ホテルのことしか見てなかったから、全然気づかなかったよ」
「ふふ。何があるかは、着いてからのお楽しみ」
そう言って俺は、少し先を歩きながら後ろにいた飯塚さんたちに合図を送った。
すると、まいが小走りで俺の隣に並びながら、「何なんだろう…」と不思議そうに呟いて首を傾げる。
そしてふいに、まいが俺の腕にそっと自分の腕を絡めてきた。
「ここなら、もう飯塚さんたちに見られないもんね」
まいはそう言って、ふわっと笑いながら俺の顔を見上げてきた。
その瞳はどこか子どものように輝いていて、俺もつられて微笑んだ。
「そうだね。ここなら、俺たちだけの時間って感じだな」
ふたり並んで、ゆっくりと足を進める。
目の前に、木造りの可愛らしいログハウスが見えてきた。
「わぁ、なんかすごく可愛いね」
まいが目を輝かせながら指をさす。
「謙、あそこのログハウスなの?」
「違うよ。あれは受付だと思う」
「そっかぁ〜」
まいはどこに向かっているのか分かっていない様子だったけれど、それがかえって楽しいのか、足取りは軽く、表情はまるで冒険前の子どもみたいに期待に満ちていた。
ログハウスの前まで来ると、掲げられていた木製の看板が視界に入る。
そこには、優しい書体でこう記されていた――
【風のガーデン】
まいがその文字を目にして、少し驚いたように立ち止まった。
受付を済ませたあと、俺はログハウスの横にある木製のベンチに腰を下ろした。
木々の揺れる音と、遠くで風にそよぐ草の音が心地よく耳に入ってくる。
まいも俺の隣に座りながら、少し首をかしげて聞いてきた。
「ねえ、謙。ここからどうするの?」
「もう少ししたら車が来るみたい。それに乗って目的地まで向かうんだよ」
「へえ〜、車で移動するんだ。どこ行くのか、やっぱり気になるなあ」
そう言いながらまいが携帯を取り出して、検索を始めようとしたその瞬間、俺はすかさず制止した。
「ダメっ! それ、着いてからのお楽しみだから調べちゃダメ」
「えぇ〜、気になるよぉ〜。ね、少しだけヒントちょうだい?」
まいは甘えるような声で言ってきたが、ここは譲れない。
「ダ〜メっ。これはね、俺がこっそり調べて決めた“トップシークレット”の場所なんだから。
とにかく着いてからのお楽しみってことで!」
俺がにやりと笑いながらそう言うと、まいはしばらく不満そうに唇を尖らせていたけれど、すぐにクスッと笑って、携帯を素直にしまった。
「もう、謙ってば……でも、楽しみにしてるね」
そう言って俺の顔を見つめるまいの表情には、ほんのりとした期待と優しい笑顔が浮かんでいた。
しばらくベンチで待っていると、白いワゴン車が静かに目の前へと滑り込んできた。
運転席から降りてきたドライバーの男性が、にこやかに声をかけてくる。
「お待たせしました。お好きなお席にどうぞ」
どうやら、今回の便に乗るのは俺たちだけらしい。
車内には他の乗客の姿はなかった。
まいがふと俺の顔を見て、小さな声で不安そうに呟いた。
「ねえ、謙のチョイス……ほんとに大丈夫? なんか、全然人いないし……
もしかして、ここあんまり人気ないとか……謙ってたまにそういうの、かますよね?」
「ちょっ、それ酷くないか〜?」
俺が思わず苦笑いしながら抗議すると、まいはクスクスと笑い出し、
その様子につられて俺もつい吹き出してしまった。
そんなやりとりの中、運転席からドライバーが軽く振り返って「では、出発しまーす」と言いながら、心地よい音楽を流し始めた。
ワゴン車は静かに走り出し、やがてゴルフ場のコース沿いを抜けて、深い森の中へと入っていく。
大きく枝を広げた木々のトンネルの下を、ゆっくりと進んでいくその車内は、まるで時間が少しだけ緩やかに流れ始めたような、不思議な静けさに包まれていた。
まいは車窓の外をじっと見つめながら、穏やかな空気に身を委ねるように、ふと微笑んでいた。
その表情は、さっきまでの冗談とは打って変わって、とても優しくて、静かに癒されているようにも見えた。
俺はその横顔を、そっと見つめた。
きっとこの場所が、彼女の心にとっても特別な時間をくれる――そんな気がしていた。
しばらく走ると、ワゴン車はふわりとスピードを緩め、木々の合間にぽっかり開けた小さなスペースに停車した。
「到着いたしました。どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいね」
運転手の優しい声とともにスライドドアが開き、俺たちは軽く会釈して車を降りた。
「車はこちらで待機していますので、戻ってこられる時にまたお声がけくださいね」
そう言ってくれる運転手にもう一度礼を伝えると、俺たちは並んで歩き出した。
視界の先には、一本の道がまっすぐに延びていた。
左右を囲うように、鮮やかな緑の草が背丈ほどまで伸びていて、その真ん中にぽっかりと空いた細道が続いている。
まるで自然が作ったグリーンの回廊――空へ向かって両腕を伸ばす草たちの間を縫うように、俺たちは歩いていた。
見上げると、雲一つない広い空。
さっきまで車に乗っていたはずなのに、どこか違う世界に足を踏み入れたような気がして、思わず深呼吸したくなる。
そんな空気の中、ふと横を見ると――まいが静かに笑っていた。
その頬に当たる光も風も、なんだか柔らかくて優しい。
「謙、ここ……すごく気持ちいい」
まいはまるで子供のように目を輝かせながら言った。
「整備されてるんだろうけど、なんか、作られた感じがしなくて……自然すぎて、不思議な道って感じ。
ほんとに……ドラマに出てきそうだね」
「な? ハズレじゃなかったろ?」
俺がそう答えると、まいは大きく頷いてから、空を見上げた。
「うん……すごく癒されてる。謙、ありがとう」
その言葉を聞いたとき、俺の心にもそっとあたたかい風が吹いた気がした。




