238 【守るという覚悟】
夜のホテルの部屋。
静けさの中に、窓の外から遠く車の音がかすかに響く。
まいと向かい合って立つ謙の声は、どこか低く静かで、それでいてまいの心の奥を見透かすようだった。
「まい……なあ、どうして俺が事件に関わるって思ったの?」
その言葉に、まいは目を伏せた。
唇を噛んで、何も言えないまま立ち尽くしていた。
謙は、まいの沈黙に優しく微笑んだ。だがその目には、迷いのない光が宿っていた。
「俺さ……今の生活でいいと思ってたんだ。何も知らないままでもね。静かに暮らしていければそれでいいって思ってた」
声には偽りのない本音がにじんでいた。
過去の自分に関わること、事件の真相、そんなものには踏み込みたくない。
怖いのではない。ただ、まいのことをもっと知りたいという気持ちもある。だけど何もかもを思い出してしまうことによって今の生活が変わってしまったら……そんな思いもあった。
「事件なんて、本当は巻き込まれたくなかったよ。自分から近づくなんて、考えてもいなかった。だから、俺がどうしてこんなふうに巻き込まれてるのか……まいがもしかしたら知ってるんじゃないかって、思った」
まいは、その場にいるのが苦しくなるほど胸が締めつけられた。
だけど謙の声には怒りも責めもなく、ただ、確かめたかったという想いだけが滲んでいた。
「でもな、まい」
そう言って謙は一歩、まいから体を引いてまいの目を見つめた。
「俺は――俺から関わるつもりは、本当にないから。安心していい。何も、望んでるわけじゃない。これまで通りの暮らしを続けたいだけなんだ」
静かに、だけど力強く、謙は言い切った。
「でも……」
その瞳が、ふっと揺れた。
そして、まいを見つめる目に、凛とした光が宿る。
「でももし――もしも、まいに危害を加えようとするやつが現れたら……その時は、俺は絶対に黙ってない」
「たとえ今、過去に背を向けていても、たとえ俺が事件を避けてたとしても――まいを守るためなら、俺は、絶対に許さない。今の生活が出来なくなったとしても絶対に…」
まいの目に、涙が滲む。
「……だから、心配するな。そんなこと、きっと起きない。俺がそうさせないから。大丈夫だよ」
そう言うと謙は、まいを静かに、けれどしっかりと抱きしめた。
その胸の中には、迷いも不安もなかった。
あるのはただ、「まいを必ず守る」という一つの決意だけだった。
そしてまいは、そのぬくもりの中で、自分がどれだけ大切に想われているのかを、静かに、強く感じていた
涙が一筋、頬を伝う。
「謙、信じるからね……何があっても、私、信じるから……だから……絶対に、私を一人にしないでね」
震える声でまいが願うようにそう言うと、謙は優しく微笑んだ。
「じゃあ、札幌の夜の街、遊びに行こうか」
柔らかな声で、まるで空気を変えるように、謙は言葉を続ける。
「もう一回、最初からやり直そう。今度は、ちゃんと笑って……楽しい旅にしょう」
まいはその言葉にふっと表情を和らげ、涙を拭いながら、そっと頷いた。
「……うん」
2人はそれから、ホテルを出て、そっと寄り添いながら、
まだ続く旅路の中――札幌の夜に静かに溶け込んでいった。
橘の携帯が、静かな夜を破るように鳴った。
ディスプレイに表示された名前は――飯塚。
橘はすぐに応答ボタンを押した。
「……もしもし、橘です」
「お疲れ様、橘。すまん、ちょっと報告がある」
飯塚の声は、どこか申し訳なさそうだった。
それを聞いて、橘はすぐに表情を引き締める。
「……何かあったのか?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ……尾行がバレた」
「……マジか?」
橘は軽く笑った。。だが、飯塚は苦笑混じりに答えた。
「ああ……悪い。隠密に動いてたつもりなんだけどな。高木さん、相当警戒してたみたいで。夕方、ちょっとした騒ぎになったよ」
「騒ぎって……大丈夫だったのか?」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと誤解は解けたし、そのあと理由を言って一緒に飯まで食ったから」
「……そうか。ならよかった」
橘は胸を撫で下ろした。けれど、飯塚の言葉はさらに続いた。
「それにしても……お前の親友、いい奴だな。俺、気に入ったよ」
「そうかぁ……あいつ、ちょっと変わってるけど、根は真っ直ぐなやつなんだ」
「うん。俺たちが女の子たちに近づいていったとき、高木さん、真っ先に走ってきてな。俺たちに本気で立ち向かおうとしてた。あの勇ましさ、最近じゃなかなか見ないタイプだよ」
「そんなに……頑張ってたのか、あいつ」
「大したもんだった。橘、お前の約束は守れなかったけど、明日も護衛させてほしいって高木さんに伝えたら、ちゃんと『よろしくお願いします』って言ってくれた」
橘は静かに目を閉じて、言葉を噛み締めた。
「……すまない。ほんとに、ありがとう。あいつは俺の、大事な友達なんだ。だから……2人のこと、頼む」
「任せとけ」
飯塚の声には、頼もしい自信が宿っていた。
「俺も部下も、高木さんのこと気に入ったよ。特に……まいちゃん、かわいいしなぁ」
「おい、飯塚……まいちゃんにちょっかい出すなよ!それだけは絶対に許さんぞ!」
「ははっ、冗談だって。でも本当に、まいちゃんは素直でいい子だな。高木さんとお似合いだよ。だから、心配すんなって。絶対に守るから」
「……ありがとう。また明日、連絡頼むな」
「おう、任せろ。あ、それよりまだ仕事してるのか?」
「……ああ。謙の事件、今まとめてるところだ」
「無理すんなよ。あんまり根を詰めすぎるな」
「分かってる。ありがとな。じゃあ明日な」
「あぁ、また明日報告するから。じゃあな」
通話が切れると、橘は携帯をそっとテーブルに置いた。
画面に反射する自分の顔は、どこか安心したように見えた。
そして、ぽつりと呟く。
「……あいつ、ほんと変わってねぇな」
ふっと、懐かしそうに目を細める。
いつだって誰かのために動いて、傷だらけになりながらも、まっすぐで、不器用なほどに優しい――あの頃のままの謙が、そこにいた。
「どこまでもバカで、どこまでも真っ直ぐで……まったく、しょうがねぇ奴だ」
その言葉の中には、呆れと、それを上回る深い信頼があった。
橘は再び椅子に深く腰を下ろすと、パソコンの画面に向き直った。
「……俺も、負けてらんねぇな」
橘の夜はまだ、静かに続いていた。




