222 【特別な朝の優しさ】
「まい? ラスト、コーヒーでも飲まない?」
食後のひとときをゆっくり楽しみたくて、そう声をかけると、まいは少し驚いたように俺を見た。
「いいよ」
「俺が持ってくるから、座ってな」
そう言って立ち上がろうとすると、まいは慌てて言う。
「私が持ってくるよ」
「いいから。まいは座って、のんびりしてろ」
まいはじっと俺を見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「謙、どうしたの? やっぱり今日、変だよぉ〜」
「なんだよぉ〜。まいに喜んでもらいたいだけだよぉ〜。そんなに変か?」
「ううん……なんか、今日の謙すごく優しいから……」
まいは小さく微笑みながら、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「何それ、いつもそんなに俺、優しくない?」
冗談めかして笑いながら聞くと、まいは少し照れくさそうに言った。
「そうじゃないよぉ〜。謙はいつも優しいけど、今日は特別そう感じるだけ。なんか……すごく嬉しいよ」
その言葉に、俺は思わず鼻をかく。
「バーカ、そんなこと言われたら照れるだろ」
「えへへっ」
まいはくすっと笑って、スプーンでカップの中をくるくるとかき混ぜた。
「とりあえず、コーヒー持ってくるからな」
「うん、待ってるね」
俺は立ち上がり、コーヒーコーナーへと向かう。
まいはその背中を見送りながら、小さくつぶやいた。
「謙、本当に優しいなぁ〜……なんか、幸せ感じちゃう」
彼女の頬が自然に緩み、柔らかな笑顔が浮かぶ。
一方、俺はコーヒーを入れながら、ふと窓際の二人をさりげなく見た。
彼らは静かにコーヒーを飲んでいる。
(……まだ、いるのか)
まあ、宿泊客なら当然だ。朝食をゆっくり楽しんでいるだけかもしれない。
だが、なんとなく気になって、トレイにカップを置きながらもう一度視線を向ける。
その瞬間――。
……男性の視線が、一瞬、俺と交差した気がした。
(……気のせいか?)
確信はない。だが、何かが引っかかる。
(まあいい。今はまいのところへ戻ろう)
コーヒーをトレイに乗せ、深く考えすぎないようにしながら、ゆっくりとテーブルへ戻る。
「はいよぉ〜、お待たせ」
「謙、ありがとう」
まいは笑顔でカップを受け取り、小さく息を吹きかけながらコーヒーを口に運んだ。
この温かい空気を大切にしたい。
そう思いながら、俺も静かにカップを手に取った。
ゆったり流れる時間の中で
「あぁ……なんか落ち着くなぁ」
コーヒーを一口飲んで、思わずそうつぶやく。
静かな朝の空気、窓から差し込む柔らかな光、そして向かいに座るまいの穏やかな表情――この瞬間が、ただただ心地よかった。
すると、まいがスプーンでカップの縁をコツンと叩きながら、少し拗ねたような声で言った。
「謙、まだこれからなんだよぉ〜。ここで落ち着いちゃダメでしょ……」
「確かになぁ。でも……なんかいいと思わないか? この感じ……」
まいと一緒に、何も急がず、ただのんびりと時間を過ごす。この旅の醍醐味は、きっとこんな何気ない瞬間にあるのかもしれない。
まいも、カップを手に取りながらしみじみと頷いた。
「こんなにゆっくり旅するなんて、なかなか無いかもしれないねぇ」
「うん。でも……やっぱりまいが隣にいてくれるからかなぁ〜」
ぽつりと本音がこぼれる。
その瞬間、まいはピタッと動きを止めた。頬がじわりと赤く染まり、目をぱちくりさせる。
「……け、謙?」
まいは視線をそらしながら、小さな声で言った。
「やっぱり今日の謙、変だよ……昨日、頭打っておかしくなったんじゃないの?」
照れ隠しの冗談なのはわかっている。でも、その言葉の端々に、少しだけ戸惑いが混じっている気がした。
俺は苦笑しながら
「まい、今日はひどいなぁ〜。せっかく素直な気持ちで言ってるのに……」
まいの顔をじっと見つめると、彼女はさらに頬を赤らめ、もじもじと指先をいじり始めた。
「……だって、恥ずかしいじゃん……」
そして、まるで誰にも聞かれたくない秘密を打ち明けるように、そっと小さな声でつぶやいた。
「……でも、嬉しいよ」
まいのその言葉を聞いた瞬間、心がじんわりと温かくなる。
俺は、にやりと微笑んで、まいのカップにそっと自分のカップを重ねた。
「なら、素直にそう言えばいいのに」
「……ばか」
まいはむくれたように言いながらも、その唇の端には、しっかりと笑みが浮かんでいた。
レストランを出て
「じゃあ、行くか?」
「うん!」
まいが元気よく返事をすると、俺たちは並んでホテルの外へと出た。朝の澄んだ空気が心地よく、冷たい風が頬を撫でる。
まず最初の目的地は、すぐ近くにある別のホテル。俺はスマホを開き、道順を確認していた。
「謙、こっち方面だったよねぇ?」
まいが俺の横で覗き込むように聞く。
「ああ、そうだよ。そこを左に曲がったらすぐみたいだ」
俺がスマホの画面を見ながら答えると、まいは「よーし!」と意気込んで歩き出した。
俺たちは、軽く冗談を交わしながら道を進む。観光客の姿もちらほら見えるが、まだ朝の時間帯だからか、街はどこか落ち着いた雰囲気だった。
「ねえ、函館ってやっぱりいいところだよね」
まいがふと呟く。
「そうだな。昨日もいろんなところ回ったけど、まだまだ見どころがありそうだ」
そんなことを話しているうちに、気がつけばもう目的のホテルの正面に着いていた。
「まい、ここだよ」
「はやっ!」
まいが驚いたように目を丸くする。
「楽しく歩いてると、時間が経つのもあっという間なんだよ」
「ふふっ、そうかもね」
俺たちは笑い合いながらホテルの中へ入った。フロントの横に目をやると、スタンプスポットがすぐに見つかった。
まいと顔を見合わせ、思わずにっこりする。
「よし、無事にゲット!」
「良かった、良かった!」
まいは満足げに頷き、スタンプが押された台紙を大事そうに見つめている。その姿がなんとも可愛らしくて、俺は思わず微笑んだ。
ホテルを後にし、次の目的地「湯の川停留所」へ向かう。今度は少し距離があるが、それでも歩いて15分ほど。のんびりと並んで歩きながら、他愛もない話を続ける。
「謙、昨日の晩ご飯、本当に美味しかったねぇ」
「おう、特にあのイカ刺し。あれは絶品だったな」
「やっぱり北海道の海鮮は最高だよねぇ〜」
「だからさっきもイカ刺しチョイスしたんだよ」
そんな会話をしながら歩いていると、気づけばもう停留所に到着していた。
「よし、あと残りは空港だけだな」
「そうだね。こんなにスムーズに進むなんて思わなかった」
「確かになぁ〜」
俺たちは改めて台紙を眺め、押されたスタンプを確認する。こうして形に残るのが、なんだか嬉しい。
「でも本当に、このスタンプラリーやって良かったと思うよ。しっかり函館観光できた感じがするもんなぁ。まいのおかげだなぁ」
そう言うと、まいは少し照れたように視線を逸らしながら、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「謙、やっぱり今日変だよ……」
「え? そうか?」
俺が首をかしげると、まいはふいに俺の腕にしがみついた。そして、小さな声で囁く。
「私のこと…… 離さないでね」
その言葉に、
「当たり前だろ」
まいの腕に軽く力を込めて、俺もそう返した。




