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215 「月と湯煙」


脱衣所で浴衣を脱ぎ、軽く肩を回しながら浴場へと足を踏み入れる。


思った以上に広々としていて、人もまばらだ。この時間帯なら、もうほとんどの客は部屋でくつろいでいるのかもしれない。


「やっぱり、遅い時間の風呂は空いてていいな……。」


独り言のように呟きながら、奥にある露天風呂へ向かう。


風呂の奥に設けられた木の扉を開くと、ふわっと夜風が流れ込んできた。温泉の熱気とひんやりした空気が入り混じる心地よい感覚。足を踏み出すと、目の前には想像以上に開放的な空間が広がっていた。


「すごい……。」


思わず息をのむ。


視界の先には、まるで湯船の向こうに海がそのまま続いているような景色。浴槽の端に仕切りの壁はなく、遠くの水平線と溶け合うような錯覚を覚える。月の光が静かに湯面に反射し、波紋のように揺れていた。


俺は静かに湯船へと足を沈め、じわりと広がる温もりに体を委ねる。


「……はぁ。」


自然と息が漏れた。体の芯まで染み渡るような心地よさ。腰の痛みがじんわりと和らいでいくのを感じる。湯の温度はちょうどよく、熱すぎずぬるすぎず、肌を優しく包み込む。


空を見上げると、月がぽっかりと浮かび、星が瞬いている。


「今頃、まいもこの月を見ているのかな……。」


そんなことをふと思う。きっと、女湯の露天風呂からも同じような景色が見えているはずだ。まいも、俺と同じように湯に浸かりながら、今日一日のことを思い返しているのだろうか。


だが、頭の片隅から離れないものがある。


――函館山での、あの出来事。


あの時、俺は確かに”押された”感覚があった。ただの勘違いとは思えない。


「一体、何だったんだ……?」


誰かに狙われているのか? 純一が言っていたように、事故のことが関係しているのか? それとも、俺の記憶に何か重大な秘密が隠されているのか?


考えれば考えるほど、答えは出ない。ただ、何かが起きていることは間違いない。


「記憶さえ戻れば……。」


そんな思いが頭をよぎるが、今のところその兆しはまったくない。


「……純一にもう一度話を聞いてみるか。」


近いうちに、また飲みにでも誘おう。


そんなことを考えながら、湯の中にゆっくりと肩まで沈む。


熱がじんわりと体を包み込み、心の奥にまで染み渡るような感覚。腰の痛みも、しばらく忘れられそうだった。


「……もう少しだけ、こうしていよう。」


静かに目を閉じると、波の音が遠くで聞こえた。




「月の下で思うこと」


その頃、まいもまた、静かな湯の中に身を沈め、ゆったりと夜空を見上げていた。


広々とした露天風呂。湯気がふわりと立ち上り、月の光に照らされて柔らかく揺れる。その幻想的な光景を見つめながら、まいは今日一日を振り返っていた。


「やっぱり温泉は最高だなぁ……。」


ふと、そんな独り言が口をついて出る。


身体の芯まで温まりながら、思考は自然と巡っていく。


「いつか、謙と混浴の温泉にも行ってみたいなぁ。」


軽く笑いながら、そんなことを考える。


「でも、謙のことだから絶対落ち着いて入れなさそう……。」


慌てたり、照れたりする謙の顔が目に浮かび、くすっと笑ってしまう。最近は部屋風呂もいろんな種類があるし、貸切の温泉なんかもいいかもしれない。


「うん、いつか行ってみよう。」


そう決めると、また目の前の月に視線を戻した。


それにしても、今日は本当に充実した一日だった。


コナンの聖地巡りをして、いろんな場所を歩いて、夜景を見たり、美味しい食事を楽しんで……。函館の魅力を存分に味わえた気がする。


だけど。


「やっぱり、一番気になるのは……。」


まいの表情がふっと曇る。


思考が自然と、最後の出来事――函館山での謙のことへと引き戻される。


彼が階段から落ちた瞬間のことを思い出す。


「……やっぱり、不自然だった。」


あんな落ち方、普通じゃありえない。


謙は私を撮影しながら携帯を構えていた。確かに少し前に出てはいたけど、一段踏み外しただけであんなふうに宙を舞うなんてことは考えにくい。


それに、私の位置からは見えなかったけれど……。


「まるで、後ろから押されたみたいだった。」


まいはゆっくりと湯の中で手を握る。


誰かが、あの場にいた? それとも、本当にただの偶然?


その時、純一さんが言っていた言葉が頭をよぎる。もしそれが事実なら


『謙はもしかしたら、狙われているかもしれない。』


謙が前にお姉ちゃんの事件を調べていたことが原因なの?


「まさか……。」


まいの胸の奥で、得体の知れない不安がゆっくりと広がっていく。


ただの偶然ならいい。考えすぎならいい。でももし、本当に誰かが謙を狙っているのだとしたら?


「……私が謙を守らないと……。」


そう強く思ったとき、夜風がそっと湯気を揺らした。

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