208 「食後のコーヒーと、そろそろの時間」
ふと時計に目をやると、時刻は20時30分を指していた。
「謙、そろそろ時間になるねぇ」
まいがそう言いながら俺の顔を覗き込む。
「そうだなぁ……なんか、あっという間だったなぁ」
そう答えつつ、満腹感で重くなった腹をさすりながら、俺は椅子にもたれかかった。
「俺、歩けるかなぁ〜」
「歩かなきゃダメだよ!食後の運動しないと!」
まいはクスクス笑いながら、俺のお腹を指さして言う。
「そのまま寝たら、絶対ヤバいことになるよ!」
「……それは確かに」
俺は苦笑しつつ、最後にコーヒーを飲みたくなった。
「ラストにコーヒー飲んでから行こうか?」
「うん、それがいいね。部屋に忘れ物もないもんね?」
「携帯と財布さえあれば大丈夫だしな」
「男はいいよねぇ〜、それだけでいいんだから!女子は他にもいろいろあるんだよぉ〜」
まいは呆れたように肩をすくめてみせるが、その表情はどこか楽しげだった。
そのとき、ふと気になって彼女の服装に目を向けた。
「まい、上に羽織るものなくて大丈夫か?外、けっこう冷えるかもよ」
「あ、本当だ……そうだね、ちょっと部屋に取りに行ってくる!」
「俺も行こうか?」
「いいよ、すぐだから!」
そう言い残し、まいは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、コーヒー飲み終わったらロビーで待っててね」
「わかった。ロビーで」
まいは軽く手を振ると、足早に部屋へと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺はゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
エレベーターホールで、まいは一人、エレベーターが来るのを待っていた。
「良かったぁ……」
小さく息をつきながら、まいは胸の奥でじんわりとした温かさを感じる。
謙、本当に楽しそうだったなぁ。
私もだけど、こんなに心から楽しいって思える時間、久しぶりかもしれない。
彼と一緒にいると、仕事のことも、日常の悩みも、全部忘れてしまう。
ただ、「今」がすごく大切で、幸せで…
「ずっと……ずうっと、こうして一緒にいたいなぁ」
ぽつりと呟いた言葉は、エレベーターホールの静けさに溶けて消えた。
そこへ、エレベーターが静かに到着し、扉が開く。
まいは乗り込み、部屋の階を押した。
「これから夜景かぁ……」
函館の夜景は有名だと聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。
謙と2人で見る夜景――どんな感じになるんだろう?
「また……キス、してくるかなぁ……」
思わず小さく微笑んでしまう。
謙はいつも、予想もしないタイミングで突然キスをしてくる。
不意打ちで、心臓が飛び出しそうになるくらいドキドキするのに……嫌じゃない。
むしろ、もっとされたいって思ってしまう。
「なんでこんなに好きなんだろうなぁ……」
考えれば考えるほど、胸が温かくなっていく。
エレベーターの扉が開き、まいは足早に部屋へ向かった。
部屋に入り、ベッドの上に置いてあった自分のジャケットと、謙のジャケットを手に取る。
さて、ロビーに戻ろう……
そう思い、振り返った瞬間、まいの目に飛び込んできたのは、窓の外に広がる夜の海だった。
「わぁ……」
思わず足を止める。
昼間に見た景色とは全く違う。
暗い海の上に、月の光が静かに反射して、まるで揺らめく銀色の道のようになっていた。
それが、ちょうど部屋の真正面に見える角度で広がっている。
「すごく綺麗……」
函館の夜は、こんなにも幻想的なんだ。
「謙と一緒に見たかったなぁ……」
窓の外を見つめながら、ふとそんなことを思う。
一緒にいたら、謙はどんな風にこの景色を眺めるんだろう。
「綺麗だな」って静かに呟くのか、それとも、何か冗談めかしたことを言うのかなぁ。
いや、きっと無言のまま、私を抱きしめたりするのかも……。
そう想像しただけで、胸が熱くなった。
「……函館って、本当に素敵な街だなぁ」
大切な人と一緒にいるから、余計にそう感じるのかもしれない。
しばらく感傷に浸っていたが、はっと我に返る。
「やばい、早く戻らないと!」
急いでジャケットを腕に抱え、荷物を整え、足早に部屋を後にした。
謙が待つロビーへ――
彼と一緒に、今度は本物の夜景を見に行くために。




