197 【張り詰める空気の中で】
橘と栗原は、丸山たえこの家へと向かっていた。
橘の狙いは明確だった——丸山を揺さぶること。
彼女がどんな反応を示すのか、現時点では予測できない。しかし、こちらの存在をあえて気づかせ、プレッシャーを与えることが目的だった。
二人は、彼女の家の近くにあるコインパーキングに車を停め、入念に作戦を練る。
橘はハンドルに手を置いたまま、静かに口を開いた。
「篤志、いいか。俺たちは『すでに知っている』という態度で行くぞ。」
助手席の栗原は、真剣な表情で頷く。
「はい。」
「ただし、細かいことは今回聞かない。あくまで、それとなく探るだけだ。」
「了解です。」
橘は視線を前方に向けながら、言葉を続けた。
「最初に井上の話から入る。そこで彼女がどう動くかを見る。」
「はい。」
「当然、彼女は『知らない』と言うはずだ。だが、その言葉の裏にどんな動揺が隠れているかが肝心だ。篤志、お前は何も言わずに、ただ軽く笑え。」
栗原は思わず目を見開いた。
「マジすか?」
「自然に振る舞え。」
「でも、そんな余裕あるかなぁ……。」
橘は栗原の方をじっと見つめる。
「いいか?『俺たちは全部知ってる』って雰囲気を出すんだ。余計な言葉はいらない。ただ、わかってるぞという微笑みを見せろ。」
「……それ、マジでむずいですよ!」
「やれ。」
橘の低く鋭い声に、栗原は背筋を伸ばした。
「……わかりました。」
橘は少しだけ息を吐き、再び話を続けた。
「俺が何度か質問をするが、突っ込む必要はない。話を途中で切り上げて『また来る』と言って引き上げる。」
「相手に不安を植え付ける作戦ですね。」
「そうだ。今回はあくまで顔合わせみたいなものだ。まずは丸山から探る。」
橘は指でダッシュボードを軽く叩いた。
「丸山は口が悪いらしい。こっちが少しでも動揺したら負ける。何を言われても冷静に対応しろ。」
栗原は肩をすくめながら苦笑する。
「わかりました。でも橘さん、結構難易度高いっすよ、これ。」
すると、橘の声が一段と低くなる。
「篤志……これは敵討ちだ。」
栗原の表情が一瞬にして引き締まる。
「俺たちがやらなきゃ、誰もこの山は崩せない。それだけは、肝に銘じておけ。」
「……はい。」
二人の間に張り詰めた空気が流れた。
やるしかない。
橘は静かにエンジンを切り、ハンドルから手を離す。
「行くぞ。」
栗原は深く息を吸い込み、決意を込めた目で橘を見た。
「……行きましょう。」
二人は車を降り、丸山の家へと向かって歩き出した。
橘と栗原は、丸山たえこの家の前に立っていた。
曇りがかった空の下、古びた一軒家。小さな庭には雑草が生い茂り、生活感のない空気が漂っている。
橘は無言でインターホンを押した。
しばらくの沈黙の後、無機質な声が返ってくる。
「はい。」
橘はゆっくりと口を開いた。
「警察です。少しだけお話をよろしいですか?」
「……なんの用ですか?」
若干警戒したような声だった。
「ここでは何ですから、玄関先でよろしいでしょうか?」
「なんなの……しょうがないなぁ。今行きますから、ちょっと待っててください。」
「ありがとうございます。」
橘は一歩後ろに下がり、栗原と目を合わせる。
「始まるぞ。」
「……はい。」
そして数十秒後、ギィ……と重たげな音を立てて玄関のドアが開いた。
そこに現れたのは、派手なデザインの洋服を身にまとった丸山たえこだった。年齢にそぐわないけばけばしい柄のワンピースに、濃いアイメイク。だが、その表情はどこか眠たそうで、だるそうに片手を腰に当てながら言った。
「で、何ですかぁ?」
橘は冷静な表情を崩さずに答える。
「いくつか質問をしたいのですが、よろしいですか?」
「……いいですよ。でも早くしてくださいね。これから出かける予定があるんで。」
「すみません。時間は取らせません。」
橘の声は落ち着いていたが、どこか相手を見透かすような冷たい響きを持っていた。
丸山は髪をかき上げながら、足を軽く組み替える。落ち着きがない。
「それで、何ですか?」
橘はわずかに口角を上げ、単刀直入に切り込んだ。
「この前、荒川の河川敷で殺害された井上ひさしをご存知ですか?」
一瞬、丸山の眉がわずかに動いた。
「……ニュースで見たくらいで、知らないですよ。」
すぐに答えた。だが、その間にほんのわずかな間があった。
橘はその様子を見逃さず、次の言葉を放つ。
「そうですか。」
間髪入れずに、さらに畳みかけた。
「井上が豊島総合病院の従業員を殺害したことは、ご存知ですか?」
今度は、はっきりとした動揺が丸山の表情に現れた。
彼女の視線がわずかに揺れる。
橘はその一瞬をしっかりと捉え、栗原もまた、その変化を見逃さなかった。
栗原は事前に指示されていた通り、不敵な微笑みを浮かべる。
“俺たちは知ってるぞ”
その無言の圧力をかけるように、目を細め、唇の端をわずかに持ち上げた。
丸山の視線が栗原の顔に向けられる。
そして、明らかに動揺しているのが伝わってきた。
「丸山さん。」
橘の低く落ち着いた声が響く。
「確か、事故の被害者は高島総合病院の関係者でしたよね?」
「……っ!」
丸山の呼吸が浅くなる。
「知らない! そんなことまで知らないわよ!」
声のトーンが明らかに上がった。
橘はわずかに目を細め、淡々とした口調で続ける。
「わかりました。突然お邪魔して申し訳ありません。ただ——」
橘は一拍置いた。
「井上の件と同じように、“用済み”になったとき、また同じことが起こるかもしれないな……と思いまして。勘違いでしたかね?」
丸山の表情が凍りついた。
橘はポケットから名刺を取り出し、玄関の隅にそっと置いた。
「あぁ、もし何か思い出したら、ここに連絡をください。」
橘は一歩後ろに下がりながら、さらに言葉を続ける。
「一応、私たちは丸山さんに伝えましたからね。ここに来たことだけは覚えておいてください。」
「もし何かあったらでは遅いですから。」
丸山は何も言わず、唇を噛んでいた。
完全に動揺している。
橘は軽く頷き、「では、また来ますので。」とだけ言い残し、振り返り外に向かった
栗原も無言のまま、それに続いた。
不自然なほど、堂々とした背中を向けて。
玄関の扉が閉まる音が聞こえた瞬間、栗原は歩きながらさりげなく振り返る。
不敵な微笑みを浮かべながら——。
その視線の先には、凍りついたように立ち尽くす丸山の姿があった。
そのまま、2人は車を停めたコインパーキングまでゆっくり歩いていった。
栗原は静かに車に乗り込むと、橘に向かって小さく笑う。
「……いやぁ、完璧にハマってましたね。」
橘はエンジンをかけながら、短く答えた。
「当然だ。」
車がゆっくりとコインパーキングを出る。
丸山たえこの家の前を通り過ぎるとき、二人は何も言わず、その場をあとにした。
車の中、橘はハンドルを握りながらフロントガラス越しに流れる景色を眺めていた。
篤志が助手席で腕を組みながら問いかける。
「橘さん、次は湯川ですか?」
橘は視線を前に向けたまま、静かに頷いた。
「そうだ。丸山は今ので完全に動揺したはずだ。しばらくは何もできず、固まってるだろうな。」
栗原は苦笑しながら
「……でも、すぐに依頼者に連絡しないですかねぇ?」
橘は冷静な口調で即答する。
「できないさ。」
その言葉には確信があった。
「今すぐ報告すればどうなる? 依頼者が何をするか、丸山も分かっているはずだ。」
「……消される、か。」
「そうだ。」
橘はアクセルを軽く踏み込みながら続ける。
「井上がいい例だ。あいつも利用されるだけ利用されて、最後は口封じされた。丸山もそれくらいは理解してるはずだ。」
「……となると、焦りが増して、どう動いていいか分からなくなる。」
栗原が呟くように言うと、橘はニヤリと笑う。
「そういうことだ。じわじわと追い詰める。“どこにも逃げ場がない”と自覚させるのが今回の狙いだ。」
「一気に畳み込む……ってわけですね。」
栗原が頷くと、橘はフロントミラー越しに彼を見やり、不敵な笑みを浮かべた。
「そういうことだ。……さて、次の一手を打ちに行くぞ。」
車は滑るように道を進み、次なるターゲットへと向かっていった。




