181 「心の奥の不安」
俺たちは並んでカレンダーを見ながら、旅行の日程を考えた。
結果、4月15日から3泊4日でのんびり行くことに決定。
宿や飛行機の手配はまいが担当し、俺がプランを考えることになった。
「まいに苦労かけた分、今回は心から楽しんでもらいたい」
そう思いながらも、この気持ちは旅行最終日まで胸の内にしまっておくことにした。
そんなふうに考えていると、ふと、まいの仕事のことが気になった。
「まい?」
「なぁにぃ?」
「仕事、いつ頃から復帰するつもり?」
まいはコーヒーを口に運びながら、少し考えるように視線を落とした。
「そうだよねぇ……やっぱり、ゴールデンウィーク明けかなぁ〜」
「じゃあ、俺もそれくらいから復帰するよ」
俺がさらりと言うと、まいの手がピタッと止まった。
そして、俺をじっと見つめる。
「……謙、大丈夫なの?」
「ん?」
「まだ、無理しないほうがいいよ……」
まいの声には、明らかに不安が滲んでいた。
俺は軽く肩をすくめながら、笑ってみせる。
「まい、見ててどう? 俺、やばそうか?」
「……そうは見えないけど……」
「だろ?」
俺は少し笑いながら、カップを手に取った。
「確かに記憶はまだ戻ってない。でも、体は前と同じくらい回復してる。だから心配するなよ」
「……」
「まぁ、正直、仕事なんか全然覚えてないし、何もできないとは思う。でもさ、少しずつできることからやっていけば、たとえ記憶が戻らなくても、新しい記憶で仕事していけるだろ?」
そう言って、まいの顔を見た。
だが——
まいは、なぜか寂しそうに微笑んでいた。
「まい?」
「……ん?」
「どうした?」
「……何でもないよ」
そう言いながら、まいは視線を逸らした。
でも、その横顔は明らかに不安そうだった。
口元は笑っているのに、目が笑っていない。
本当は何かを言いたいのに、言葉にできない。
そんな感じが伝わってきた。
だけど、今は無理に聞かないほうがいい気がした。
俺は軽く話題を切り替えることにする。
「それに、橘たちとの飲み会もあるしなぁ。けっこうバタバタして時間が過ぎそうだなぁ〜」
「……そうだねぇ」
まいは微笑んだものの、どこか元気がない。
俺の考えすぎかもしれない。
けど、やっぱり気になる——
俺はコーヒーを一口飲み、深く息を吸い込んで静かに吐き出した。
コーヒーを口に運びながら、ふと、以前にも似たようなことがあったのを思い出した。
——会社に挨拶に行く時も、まいはこんなふうに不安そうな顔をしていた。
あの時も、俺が「そろそろ会社に顔を出す」と言った瞬間、まいの表情が曇った。
「無理しないほうがいいよ……」
その言葉に込められた感情は、ただの心配じゃないように思えた。
そして、今も——
俺が「仕事復帰しようと思う」と言った途端、まいの目が一瞬揺れた気がした。
まいは俺が会社に行くことに、何か不安を感じているのか……?
いや、そんなわけない。
きっと、俺の体を気遣ってくれてるだけだろう。
無理して働いて、また倒れたりでもしたら困る——
そう思ってくれているんだ。
でも……
まいの寂しそうな横顔が、どうしても気になった。
そして、自分でも意味もなく、変なことを考えている気がした。
もし今、まいに「どうした?」と聞いたとしても——
「……何でもないよ」
きっと、それだけで終わるだろう。
それ以上は何も言わず、ただ微笑むだけ。
それがわかるからこそ、俺は問い詰めることもできず、胸の奥にモヤモヤした感情が溜まっていく。
何とも言えない違和感が、じわじわと心の中に広がっていくような気がしていた——
「まい。今夜、鍋にでもしようか?」
夕方が近づき、ふとそう提案してみる。
「いいかも。なんか、何となく冷えるしね」
まいも賛成してくれた。
「じゃあ、後で食材を買いに行こうか?」
「うん。何鍋にする?」
「うーん……まだ決めてないなぁ。スーパーで食材を見ながら考えようかな」
「私は何でも平気だよ」
そう言って微笑むまいの表情は、いつもの彼女に戻っているように見えた。
——少し前までの、寂しそうな顔が嘘みたいに。
俺は、今夜は2人で鍋をつつきながら、北海道旅行の話でもしようと考えていた。
まいがどんなプランを望んでいるのか、楽しみにしていることは何なのか——
そんな話をして、少しでも楽しい時間を過ごしたかった。
まいの不安そうな表情を思い出さないように、今はただ、明るいことだけを考えたい。
「謙、そしたら早めに買い物に行こうかぁ」
「おぅ、わかった」
支度を済ませ、俺はすぐに玄関へ向かったが——
まいはまだメイクを始めたばかりだった。
鏡に向かい、コンパクトを開いて丁寧に化粧を直す姿を見て、俺は思わずつぶやく。
「女性って大変だなぁ。ちょっとした買い物なのに、ちゃんとメイクしないといけないんだもんなぁ」
すると、まいは手を止め、鏡越しにじろっと俺を見た。
「そうだよ。身だしなみだからね!」
言い切ると、まいは少しムッとした表情で続けた。
「私がいい加減だったら、それは私の問題じゃなくて謙が笑われるの!男の人とは違うんだからね。やることがたくさんあるんだから!」
その言葉に、俺は思わず苦笑いしてしまう。
結局、また怒られてる気がする……。
でも、こうして元気に文句を言うまいを見て、少しホッとする自分もいた。




