179 【抑えきれない怒り】
「篤志、気分はどうだ?」
喫茶店の窓際の席でコーヒーを啜りながら、橘が静かに尋ねた。
「だいぶ落ち着きましたよぉ。マジでやばかったですね、あの定食……橘さんはどうですか?」
篤志は苦笑しながら、まだ少し重そうな腹をさすった。
「あぁ……いくらかマシになったよ。しっかし、あの量は殺人的だったな」
「本当っすよ。夜飯いらないどころか、明日の朝まで腹減らなそうです」
2人は軽く笑い合った後、橘が少し姿勢を正し、トーンを落とした。
「……さて、さっきの話、考えてみるか?」
篤志も真剣な顔に戻り、頷く。
「はい」
「篤志、お前はどう思う?」
橘がテーブルに肘をつきながら問いかけると、篤志は少し考えてから口を開いた。
「総務課の上司がセクハラをするっていう噂、気になりますね。それが原因で、みんな関わりたくなくて情報提供を拒んでるんじゃないですかね。逆に人事部の方は、良い人間関係だから、みんな団結してる印象です」
「確かに、そんなところだろうな……」
橘は軽く頷き、コーヒーを一口飲んでから深く息をついてしばらく考えていた。
橘の頭の中には、ずっと引っかかっている疑問があった。
まいから聞いた証言……父親の自殺。
なぜ彼は、そこまでして“責任”を取らなければならなかったのか?
「私は知らない。やっていない」
と言う麗子の残した言葉
まいから聞いたあの言葉が、何度も頭の中でこだました。
朝比奈麗子は、父親が亡くなった後、何かを必死に調べていた。
彼女は何を追い、何を掴もうとしていたのか。
そこまでは、ずっと霧がかかっていた。
だが——
さっきの病院関係者たちの会話で、すべてが繋がり始めた。
セクハラ上司が、麗子に近づいた。
それを拒否し続けていた麗子…
その腹いせに、麗子の父親にありもしない事を伝えた
もし、あの話が事実なら……。
橘は拳を握った。
ただの噂や推測ではない。
これは、仕組まれた策略と思った
頭の中でまいの証言とあわせてもう一度整理をしてみた。
麗子の父親は、何者かにはめられた。そいつの電話で……
麗子が冤罪を着せられ、世間から追い詰められるのを父親としては耐え難かった。そこにはきっと娘を思うあまりに、厳格者だったから、結果……
自ら命で公表を抑えた。
その無念を晴らすために、麗子は動いた。
だが、その彼女もまた何者かに……消された。
「……クソが……!」
橘は、静かに沸騰する怒りを押さえ込もうとするが、奥歯が自然と噛み締められるのを止められなかった。
もしこれが本当なら——許せない。絶対に。
親友の彼女の家庭をめちゃくちゃにした奴らを、このまま野放しにするなんて、できるはずがない。
橘の中に、静かに、しかし確実に燃え上がる怒りがあった。
「篤志、俺の考えは、あくまで推測だが——」
橘は込み上げるものを押さえながら、冷静に静かに話し出した、
篤志は慌ててメモを取り出し、ペンを構えた。橘はテーブルに指を軽くトントンと叩きながら、ゆっくりと推理を語り始めた。
「まず、朝比奈麗子は誰かから執拗にセクハラを受けていた。しかし、彼女はそれを拒み続けた。そこでやつらはある事件をでっち上げ、それを朝比奈麗子に押し付けた」
篤志のペンが走る音だけが、静かな店内に響く。
「そのデマは、彼女の父親にも伝えられた。そして……その偽の罪を信じ込んだ父親は、責任を取るために自ら命を絶った……」
「……っ!」
篤志は息を飲んだ。書く手が一瞬止まる。
橘は静かに話し出した。
さっきの子達が話していた通りだとすると
多分、朝比奈さんはなにも関係ないのに、最悪の方向に導かれた……
上司の欲望の為に
絶対、許せないっす!
朝比奈さん、すごく評判の良い女性と人事課でも知られていましたし……そんな女性をそんな目に遭わせるなんて
橘は腕を組み、ゆっくりと目を閉じた。
篤志、だから慎重に動かないとダメなんだ…
朝比奈さんの想いを、晴らすには今、感情的に走って台無しにしてはダメなんだよ。
朝比奈さんだけではない、桜井さん、田中さんの想いもなぁ……
篤志は橘の感情的と言う言葉と向き合っていた。
「篤志、前から言っているように、このヤマの本筋がまだ見えてこない。何が根本的な原因なのか……証拠さえあれば、すぐにでも動けるんだが、今の段階では何もないのと同じだ」
篤志は強くペンを握りしめた。
「でも、ここまで来たらあと一歩ですよね!」
「……篤志、いいか」
橘は真剣な目をして篤志を見つめた。
「ここからは、一つのミスも許されない。俺たちの動きが奴らに悟られたら…
本筋の証拠はす べて消されしまう恐れがある…
もう二度と真相にはたどり着けなくなる」
篤志の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
「焦るな。慎重に行くぞ」
「……はい、わかりました」
篤志はゴクリと唾を飲み込み、拳を握った。
推理はまだごく一分だが、この事件の全貌の推理が橘の思う通りなら、これは単なる事件ではない。
隠された闇は、想像以上に深く、そして危険なものになるのだった。




