175 【 揺れる思考と小さな癒し】
まいはまだベッドルームから出てこない。
完全に飲みすぎだな。
時計を見ると、もうすぐ11時になろうとしていた。
昨夜のうちに考えていた通り、今日は部屋を片付けながら、何か手がかりになりそうなメモを探すつもりだった。
だが、まいがまだ寝ているとなると、掃除の音で起こしてしまうかもしれない。
それを考えると、なかなか行動に移せず、ただ時間だけが過ぎていく。
「どうするか……」
特にすることもなく、なんとなくリモコンに手を伸ばしてテレビをつける。
だが、画面の中で流れるニュースやバラエティ番組は、どこか現実味がなく、ただの雑音にしか感じなかった。
「……なんか、虚しいな」
ふと、別のことを思いついた。
計画を立てるのはどうだろうか。
今は4月。
向こう3ヶ月くらいの予定を、なんとなくでも決めてみよう。
まず考えるべきは 仕事の復帰 についてだ。
今の俺は、仕事に戻ったとしても、まともにやれる自信がない。
このまま何もしない生活を続ければ、確実に金が尽きるのは目に見えている。
「あと1ヶ月……ゴールデンウィークが明けた頃には復帰か……」
そう独り言だが、胸の奥にわだかまる違和感は消えない。
今の俺が仕事に戻って、ちゃんとやっていけるのか?
まともに働ける状態なのか?
考えれば考えるほど、自分の無力さを突きつけられるようで、情けなさが込み上げてくる。
深く息をつき、今度は 旅行の計画 に目を向けた。
昨夜、まいと話していた旅行の話。
ゴールデンウィーク前なら、仕事のことを気にせず楽しめるし、混雑を避けられるだろう。
そう考えると、自然と 北海道 が頭に浮かんだ。
「札幌なら、もうそこまで寒くないだろうし……」
まいは「美味しい魚を食べたい!」と言っていた。
北海道なら、新鮮な海の幸がたっぷり味わえる。
確か、まいとは以前も北海道に行ったことがあるらしいが……
記憶がなくなった今の俺にとっては、新しい旅になる。
まいにとっても、もう一度訪れたって悪くないはずだ。
行き先はまだ決まっていないが、なんとなく、北海道の景色の中でまいがはしゃぐ姿が目に浮かぶ。
そんな光景を想像すると、少しだけ気持ちが軽くなった。
「……よし」
何もせずに時間を無駄にするより、まずはできることから考えよう。
そう心に決め、俺は新しいノートを手に取り、計画を書き始めた。
ノートにペンを走らせていると、ベッドルームの扉が静かに開いた。
まいが、重い足取りでゆっくりと出てくる。
いつもの元気な様子はなく、どこかぐったりとしていた。
「……おはよう……」
掠れた声が、どれだけ彼女が昨夜飲みすぎたかを物語っている。
「まい、おはよう。大丈夫か?」
そう声をかけると、まいは目を細めて首を軽く振った。
「ダメ……飲みすぎたみたい……」
辛そうな顔をして、ソファーへと向かう姿を見て、つい口元がほころんでしまった。
すると、まいが低い声でぼそっと言う。
「……何、笑ってるのよぉ、謙?」
本当にしんどいのだろう。
普段なら軽く文句を言いながらも、そこに冗談混じりの語気が含まれるのに、今日は違った。
そのあとの言葉は続かず、まいは疲れ切った様子でため息をつく。
彼女はボサボサの髪を両手で軽くまとめ、そのまま俺の隣に座り込んできた。
「謙、何やってんの?」
「これからの計画でも立てようと思ってな」
そう答えながら、まいの顔を覗き込む。
やはり相当きついのか、目を閉じたままうっすらと唇を開くだけで、こちらを見ようともしない。
「なんか飲むか?」
「うん……ホットミルクがいいかも……」
「ハイよ」
俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。
その間、まいはソファーに深くもたれかかり、天井をぼんやりと見つめている。
横目でちらりと見ると、無防備に口を少し開け、呆けたような表情を浮かべていた。
普段は生き生きとした表情を見せる彼女の、こんなに弱々しい姿は珍しい。
なんとか気を紛らわせてやりたいと思うが……笑うと怒られそうだ。
俺はぐっと堪えながら、牛乳をマグカップに注ぐ。
「まい〜甘めがいいかぁ〜?」
「……うん……」
返事はするものの、まだ声に力はない。
電子レンジのスタートボタンを押しながら、ふと話を振ってみる。
「旅行、北海道ってどうだ?」
「……うん、いいよ……」
やはりテンションが低い。
普段なら「北海道?最高じゃん!」と喜ぶはずのまいが、この反応では、本調子にはほど遠い。
チーン
レンジが鳴り、ホットミルクを取り出すと、俺はそのまままいの元へ持っていった。
まいは両手でマグカップを優しく包み込むように持ち、温もりを確かめるようにゆっくりと唇へ運ぶ。
一口、また一口と静かに啜る。
すると、ふっと表情が和らいだ。
「……甘くて美味しい……なんか、癒されるぅ〜……」
さっきまでのしんどそうな顔が、少しだけ和らいでいる。
小さな微笑みが戻ってきたのを見て、俺もようやく安心した。
「そりゃ良かった」
そう言いながら、俺も隣に座り、まいの体調が少しでも回復するのを待つことにした。




