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164 【記憶の中のあの日】


「橘さん、謙には言わないでくださいね……」


まいは真剣な眼差しで橘を見つめ、静かに言葉を選んで…。


「橘さん、もう知っているかもしれませんが……姉が亡くなる1ヶ月前に、父が自殺したんです」


その言葉は静かに、しかし重く部屋に響いた。

橘は驚きの表情を見せることなく、まいの話をじっと聞いていた。

まいの瞳には微かに涙が浮かび、過去の情景が鮮明に蘇っているのがわかった。

その目は今、遠い記憶の中にいた。


「その日……いつもと同じように仕事を終えて、帰ろうと思ったんです。

でも、その日は父の誕生日で……だから、帰りにケーキを買って行こうって思いました」


まいの声は震えていたが、言葉は優しく温かかった。

橘は静かに頷き、彼女の話に耳を傾け続けた。


「父は、昔ながらのケーキが好きな人でした。

今風の可愛いケーキじゃなくて、素朴な昔ながらのモンブラン……。

特にそのモンブランが大好物だったんです」


まいの表情に、懐かしさと切なさが入り混じった。

その瞬間、彼女の記憶の中にある温かい家族の風景が橘にも伝わってくるようだった。


「だから、人数分……父、母、姉、そして私の四つ。

久しぶりに、家族みんなで一緒にケーキを食べて、笑い合えると思って……。

私、あの日は父に甘えようかなって、ちょっとだけ思ってたんです」


まいはその時の情景を思い出している。

帰り道、ケーキを大事に抱えながら、父の驚く顔を想像していた。

厳格で口うるさいけれど、どこか憎めない父の姿が脳裏に浮かぶ。


「うちの父、すごく厳格な人で……。

いちいち細かくて、特に姉には厳しかった。

姉は不器用で、要領も悪かったから、よく怒られてたんです」


まいの声に哀愁が混じる。

けれど、その目は優しく微笑んでいた。


「でも……本当は、お姉ちゃんのこと、大好きだったんだと思います。

口うるさいけど、不器用なだけで……。

父なりに、すごく愛してたんだって、今ならすごくわかります」


橘は小さく頷き、優しく呟いた。

「怖いけど、娘思いのお父さんだったんだね」


まいの瞳には一瞬、温かい光が宿った。

橘のその言葉が、まいの心にそっと寄り添っているのが伝わった。


「それで、駅に着いた時……お姉ちゃんから電話があったんです。

『今、どこ?』って。

私は『今、駅に着いたところだよ』って答えたら、

お姉ちゃん、すごく嬉しそうに『じゃあ、一緒に帰ろう!』って……」


その瞬間、まいの顔が少し緩んだ。

当時の姉の声が、今でも耳に残っているのだろう。


「お姉ちゃんは、私が乗った電車のすぐ後ろの電車に乗ってたみたいで……。

それで、二人で『お父さんを驚かせよう!』って話になったんです」


まいの目が楽しそうに輝いた。

その時の姉との会話が、今でも鮮明に蘇っているのだ。


「二人でね、『どうやったら驚くかな?』って、あれこれ話して……。

結局、お姉ちゃんがキッチンにケーキを置いて、そこに隠れてることにして、

私は普通に玄関から入って、『ただいま』って言うんです。

その『ただいま』が合図で、私がお父さんをキッチンに連れて行く。

お姉ちゃんが飛び出して、

二人で『ハッピーバースデー!』って歌う……そんな計画でした」


その時の情景が、まるで目の前に広がるように鮮明だった。

まいの声には、今でもその時の温かさが残っている。


橘は何も言わず、まいの話を静かに聞いていた。

まいちゃんの中にある、大切な思い出。

そして、その記憶がどれほど彼女にとって愛おしいものかを理解していた。


「本当に、あの日は楽しくて……嬉しくて……。

家族みんなで笑い合って、ケーキを食べて……そんな風に過ごせると思ってました」


まいの目には、溢れそうな涙が浮かんでいた。

しかし、それからまいの顔に微笑みは無くなっていった…



彼女の記憶の中で……



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