162 【不安 揺れる心 救いの声】
謙は急いで巣鴨の駅前に向かい、タクシーに乗り込んだ。
「池袋までお願いします!」
焦りを隠せない声に、運転手が一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに車を発進させた。
車内の窓から見える景色は、いつもと変わらない街の風景だったが、謙の胸中は嵐のように荒れ狂っていた。
まいが警察に連れて行かれた——。
突然の出来事に頭が混乱し、心拍数が高くなるのがわかった。
タクシーが自宅前に停まると、謙は小走りで部屋に駆け込み、車の鍵を手に取った。
玄関を出て鍵をかける手が震えているのが分かった。
「まい……大丈夫だよな……?」
不安が頭をよぎる。
だが、今は立ち止まっている場合じゃない。
車に乗り込み、ナビに警察署の情報を入力した。
その時、謙の脳裏にある人物の顔が浮かんだ。
「そうだ、純一なら……!」
頼りになる人物の顔が思い浮かび、謙はスマホを手に取った。
画面に映る橘の名前をタップし、呼び出し音が鳴り始める。
「頼む、出てくれ……早く……」
祈るような気持ちで耳を澄ませていると、通話が繋がった。
「おぉ〜、謙? どうした? ちょうど俺も電話しようと思ってたところだ」
橘の明るい声に、謙の緊張が少しだけ和らいだ。
だが、次の瞬間、言葉が詰まった。
どこから説明すればいいのか。
頭の中が混乱して、うまく言葉が出てこない。
「じ、実は……まいが……まいが、警察に任意同行で連れて行かれたんだ!」
「……何だって?」
純一の声が一瞬で変わった。
「荒川の河川敷の殺人事件の件らしいんだ。さっき、私服刑事が二人来て、話を聞きたいって……まい、すごく不安そうだったけど……」
謙の声が震える。
思い出すのは、まいの不安げな表情と、震える声。
あの姿を思い出すたびに胸が締め付けられるような痛みが走る。
「謙、まずは落ち着け。大丈夫だ、俺がついてる」
純一の声はいつものように冷静で、頼りがいがあった。
その言葉だけで、謙は少しだけ安心することができた。
「俺、今ちょうど外に出てるけど、すぐに署に戻るから。心配するな。俺がなんとかする」
「……純一……」
純一の力強い言葉に、謙の目頭が熱くなった。
自分一人じゃない。
頼れる仲間がいる。
その事実が、どれだけ心強いことか。
「俺もこれから警察署に向かう。車で向かうから、少し遅れるかもしれないけど……」
「分かった。着いたら連絡しろ。署で落ち合おう」
純一の冷静な指示に、謙は深くうなずいた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
感謝の言葉を絞り出すように伝え、通話を切った。
車内は静寂に包まれていた。
だが、謙の心は不安と焦りで押しつぶされそうだった。
「まい、大丈夫だからな……俺がついてるから……純一もいる……」
そう自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、その声は震えていた。
——まいを助けなければ。
——まいを守らなければ。
謙はハンドルを強く握りしめ、アクセルを踏み込んだ。
不安を振り払うように、車は警察署へと走り出した。
警察署の会議室に通されたまいは、緊張で体が強張っていた。
これからどんなことを聞かれるのだろう。
自分は何も悪いことはしていないはずなのに、警察署という場所にいるだけで心がざわめく。
だが、思ったよりも対応は丁寧だった。
「どうぞ、こちらにお掛けください」
通された部屋には清潔なテーブルと椅子が並んでおり、湯気の立つお茶まで用意されていた。
想像していた堅苦しい雰囲気とは違っていた。
「こんなに親切なんだ……」
まいは少しだけ肩の力を抜いた。
だが、それでも胸の奥には不安が残っていた。
しばらくすると、先ほどの私服刑事二人と、もう一人の中年男性が部屋に入ってきた。
彼は柔らかい笑みを浮かべながら軽く頭を下げ、丁寧に名刺を差し出した。
「本日はご協力ありがとうございます。私はこの二人の上司の佐藤と申します」
その声は穏やかで、決して威圧的ではなかった。
「びっくりなさったと思いますが、本当に申し訳ありません。できるだけ早く終わらせますので、ご協力をお願いします」
その言葉に、まいは少しだけ緊張が和らいだ。
「はい、大丈夫です」
震えそうになる声をなんとか押さえ、まいは返事をした。
佐藤は表情を崩すことなく、淡々と質問を続けた。
「では、4月6日、夕方18時から7日の朝6時ごろまで、どこにいらっしゃいましたか?」
その問いに、まいは少し考えてから答えた。
「……彼の自宅にいました。昼間にコンビニに行った以外は、夕方から外出していません」
「なるほど、ありがとうございます」
佐藤は事務的にメモを取り、視線を落としたまま次の質問に移った。
「次に、井上ひさしという人物をご存知ですか?」
その瞬間、まいの体が硬直した。
空気が一瞬止まったように感じた。
——井上ひさし。
その名前を聞いた瞬間、頭の中に暗い記憶がよみがえった。
彼は、まいの姉を事故で殺した男。
あの日、あの場所で、突然姉を奪った張本人。
憎しみ、悲しみ、そして喪失感。
押し殺してきた感情が一気に溢れ出しそうになる。
まいは唇を強く噛みしめ、涙が滲むのを必死に堪えた。
だが、震える声は隠せなかった。
「……知っています。私の姉を……事故で殺した男です」
佐藤は一瞬だけ表情を動かしたが、すぐに冷静な顔に戻った。
「ごめんなさい、辛いことを思い出させてしまって」
その言葉は丁寧だったが、まるで用意された台詞のように淡々としていた。
まいの心はかき乱され、呼吸が浅くなる。
目の前が霞み、頭がクラクラと揺れた。
佐藤はそんなまいの様子を一瞥し、再び質問を続けた。
「井上が訪ねてきたり、接触してきたことはありましたか?」
「……ありません」
「井上ひさしが殺されたと聞いて、どう思いましたか?」
その問いに、まいは返事ができなかった。
昨日、ニュースで知った時のあの感覚。
体が震え、頭が真っ白になった。
——喜びなんかじゃない。
——でも、悲しみでもなかった。
感情が混ざり合い、自分でも何を感じているのか分からなかった。
「……よくわかりません。ニュースを見た時、体が震えて……何も……」
声が震え、涙がポロリと頬を伝った。
自分の意思とは関係なく、感情が溢れ出した。
佐藤はその様子を冷静に見つめ、少しだけため息をついた。
「ごめんなさい、もう大丈夫です」
だが、彼の目は冷たく、感情の色はなかった。
「質問を変えます。井上が殺された理由……」
その時、ドアをノックする音が響いた。
会議室の空気が一瞬凍りつき、全員が一斉にドアの方を振り向いた。
扉が開き、そこに立っていたのは……
橘だった。
まいは目を見開いた。
「おい、佐藤! 後でまいちゃんから聞いたこと、ちゃんと教えろよな」
橘は部屋に入るなり、佐藤に向かって軽く手を挙げた。
「まいちゃん、大丈夫かぁ? 遅くなってごめんな!」
その瞬間、まいの胸に溜まっていた不安が一気に溶けた。
「橘さん……?」
涙が溢れそうになるのを堪えながら、まいはかすれた声で呟いた。
「謙から連絡もらったんだよ。もう心配しなくて大丈夫だ。俺がついてるからな」
橘の優しい笑顔に、まいは胸がじんと熱くなった。
その言葉は、暗闇の中に光を差し込むような救いだった。
「佐藤、まだ彼女に聞くことあるのか? なければ俺が引き継ぐから、戻っていいぞ」
橘は佐藤を鋭く見つめた。
その視線には、絶対にまいを守るという強い意志があった。
佐藤は一瞬だけためらったが、橘の圧倒的な存在感に押され、素直にメモをテーブルに置いた。
「……わかりました」
そう言って、佐藤は部下たちを連れて部屋を出ていった。
橘が来てくれた——。
まいは、その事実に胸がいっぱいになった。
不安と恐怖で押しつぶされそうだった心が、橘の姿を見た瞬間に温かさで満たされた。
「大丈夫だからな、まいちゃん。俺がついてるから」
橘の声が、優しくまいの心に染み渡った。




