133 【常盤やすらぎ園】
時間は10時50分。約束の時間は11時。
橘は、常盤やすらぎ園の前に立っていた。
目の前にそびえる建物は、想像以上に立派だった。
外観からして豪華な造りで、周囲の施設とは一線を画している。
「高級感が漂ってるな…」橘は思わず感嘆の息を漏らした。
──さて、行ってみるか。
気を引き締め、正面玄関を通り、受付に向かう。
「こんにちは。先ほど電話をした橘です」
受付の女性がにこやかに応対する。
「あぁ、どうもいらっしゃいませ。少々お待ちください」
彼女は内線電話を取り、誰かに連絡を取っている様子だ。
その間、橘は改めてロビーを見回した。
光が差し込む広々とした空間に、落ち着いた色合いのソファが並べられている。
「家族の面会なんかで使うのかな…」橘は想像を巡らせた。
しばらくして、スーツ姿の男性が現れた。
「お待たせしました。こちらにどうぞ」
案内されるまま、廊下を進む。
広々とした廊下には、ところどころに観葉植物が置かれ、清潔感が漂っていた。
さらに進むと、小さなコンビニまで目に入る。
「…まるでホテルみたいだな」橘は内心、豪華な施設に感心していた。
突き当たりを右に曲がると、各部署のプレートが壁に並んでいる。
「総務部」「医務室」──そして一番奥に「園長室」と記されたプレートが見えた。
男性がノックをし、中から応答があったのを確認すると、橘を中へ通した。
「どうぞ、お入りください」
ドアを開けると、品の良い家具に囲まれた広い部屋が広がっていた。
デスクの後ろに座っていたのは、落ち着いた表情の中年男性。
「はじめまして、橘と申します」
橘は手帳を見せながら自己紹介した。
園長はにこやかに頷き、
「こちらへどうぞ、おかけください」
と、応接セットを指し示した。
ソファに腰を下ろすと、柔らかい感触が心地よい。
緊張感が少し和らいだ気がした。
園長が穏やかな声で尋ねてくる。
「今日はどのようなご用件でしょうか?」
橘は姿勢を正し、静かに口を開いた。
「はい、こちらで働いているか、もしくは以前働いていたか確認したい方がいます。
丸山たえこさんについて、お話を伺いたいのですが」
園長の表情がわずかに動いた。
「丸山たえこさん…ですね。少々お待ちください」
園長はデスクに戻り、内線電話を取り上げて誰かに指示を出している。
その様子を見ながら、橘は無言で観察を続けた。
──この反応、何か知っているな…
園長が電話を終え、再び橘の方に向き直った。
「すみません、少しお待ちください。今、確認を取っていますので」
そう言うと、園長は世間話を始めた。
「確か、丸山さんって…事故を起こした女性ですよね」
橘は軽く頷いた。
「はい、そうです。ご存知でしたか?」
「えぇ、詳しく知っているわけではありませんが、あまり良い噂を聞きませんでしたね」
橘の眉がわずかに動く。
「そうなんですね。例えば、どんな噂を耳にしましたか?」
園長は少し迷った様子を見せたが、やがて静かに語り始めた。
「あくまでも噂ですからね…ギャンブル好きだったようですよ。パチンコや競馬にのめり込んでいたとか。
給料が安いと不満を漏らしては、ギャンブルで生計を立てているとも聞きました」
橘は鋭く問いかけた。
「詳しいですね。なぜそんなに印象に残ったんですか?」
園長は小さく息を吐き、記憶を手繰るように続けた。
「確か…辞める少し前、いや、事故の前だったかもしれません。
給料が安いのは会社のせいだと、人事部の者に激しく食ってかかっていたそうです。
借金が膨れ上がっていたとか…」
「ほう…」橘の目が鋭く光る。
「それで、事故の後に現れた時なんですが…
『もう馬鹿馬鹿しいから辞めます』と、突然言い出して。
しかも、退職金の話をしようとしたら、
『そんなはした金いりません』って言い捨てて帰ってしまったんです」
橘は黙って聞いていたが、心の中では何かが繋がる感覚を覚えた。
──やはり、金が絡んでいる。
園長は眉をひそめて続けた。
「あの時は驚きましたよ。そんな人がいるのかって…」
橘は、メモを取りながら考えを巡らせた。
丸山たえこ──金に執着する姿勢が、事件の裏に隠された真実へと続く鍵になるのかもしれない。
「貴重なお話、ありがとうございます。とても参考になりました」
橘は丁寧に礼を述べ、ゆっくりと立ち上がった。
──もう少しで繋がる。
徐々に手応えが現実味を帯びてきた。
橘は軽く頭を下げ、園長室を後にした。
廊下を進みながら、次の手を考える。
──丸山たえこの足取りを追えば、事件の核心に迫れるはずだ。
橘の足取りは、迷いなく常盤やすらぎ園を後にした。




