122 「刑事の夜」
橘が署に戻ると、珍しく篤志がデスクに向かって書類と格闘していた。
普段は現場仕事が多い篤志だが、今日は机の上に書類が山積みになっている。
椅子にもたれかかりながら、眉間に皺を寄せ、頭をかかえていた。
「お疲れ」
橘が声をかけると、篤志も顔を上げて「お疲れ様です」と返す。
「どうした? 篤志」
「やばいっす……情報が多すぎて、まとめるのが終わりません……」
篤志は苦笑しながら、積み重なった書類の山を指差した。
「マジか」
橘が覗き込むと、びっしりと書き込まれたメモや資料がデスクの上に広がっていた。
「でも、大丈夫です。明日までに出せば……」
「えぇ?」
橘は思わず苦笑する。
「このヤマ、まだまだ時間がかかる。だからミスは絶対に許されない」
真剣な声で言うと、篤志は背筋を伸ばした。
「だから、証言をまとめて、しっかり裏をとる。それが鉄則だ」
「……はい」
「だから、今日はいいぞ。無理して詰めても精度が落ちるだけだ」
篤志は少しホッとしたように息を吐いた。
「橘さんはどうでしたか? 何か収穫は?」
「一応な。でも、まだまだだ。ただ、加害者もひとつの線で繋がりそうなヒントは今日つかんだ。あとは明日だな」
そう言いながら、橘はスーツのポケットからメモ帳を取り出し、軽く指で弾いた。
「そうですか……」
篤志は少し考え込むように俯いたあと、不意に顔を上げた。
「橘さん、時間あったら今夜も飲みに行きませんか?」
「珍しいな。篤志の方から誘うなんて」
「……実は、今日いろいろ情報を聞いてて、なんか考えちゃったんですよ」
「考えた?」
「多分、橘さんに笑われると思うんですが……なんか、聞いてもらいたくて」
橘は少し驚いたように篤志を見たが、すぐに「わかった、じゃあ行くか」と頷いた。
篤志のこういう表情は珍しい。
刑事という仕事をしている以上、さまざまな現実を突きつけられる。
普段はそれを受け止め、割り切るしかないが——時には心に引っかかるものもあるのだろう。
2人は帰り支度を整え、署を出た。
駅近くの焼き鳥屋の暖簾をくぐると、炭火の香ばしい匂いが迎えてくれた。
店内は常連らしきサラリーマンたちで賑わっているが、2人は奥の静かな席に腰を下ろす。
「とりあえず、生2つ」
橘が手早く注文し、店員が頷いて奥へ消えていく。
篤志はまだ何か考えている様子だった。
「で? 何を考えたんだ?」
橘がグラスの水を口に運びながら聞くと、篤志は少しだけ視線を落とした。
「……今日聞いた話の中で、どうしても気になったことがあるんです」
「ほう?」
「俺たち、刑事って、正義のためにやってる仕事じゃないですか。でも……今日話を聞いた中には、そう思っている人ばかりではないんですね」
「……」
橘は黙って篤志の言葉を待った。
「今日、いろいろ聞いて、朝比奈さんすごくいい人だったみたいなんです。悲しんでた人がすごく多くて…
これが事件だったら刑事さんにも責任あるんだからね…
なんて言われて……
もし俺たちがもう少し、違う動きをしていたら、朝比奈さんは助かっていたのかもしれない……
そう思うと、なんか、どうしようもなく虚しくなったんですよ」
篤志はグラスの水を揺らしながら、ぽつりと呟いた。
「橘さんは、こういう気持ちになったこと、ないんですか?」
橘はしばらく考え込むように視線を落としたあと、静かに答えた。
「……あるさ」
篤志が顔を上げる。
「何度も、な」
橘はグラスを手に取り、一口飲んだ。
「でもな、篤志。俺たちは神様じゃない。どれだけ全力を尽くしたって、すべてを救えるわけじゃないんだ」
「……そうですね」
「だけど、だからって足を止めるわけにはいかない。俺たちは、せめて今目の前にいる人間を救うために動くしかないんだ」
篤志はじっと橘の言葉を噛みしめるように黙っていた。
そのとき、店員が生ビールを運んできた。
「お待たせしました、生2つです」
「お、きたな」
橘はグラスを持ち上げ、篤志の方を向く。
「ま、考えすぎるな。飲め」
「……はい」
篤志もグラスを取り、軽く橘とぶつけた。
「……お疲れ様です」
「お疲れ」
静かに、しかし確かな音を立てて、グラスがぶつかり合った。
刑事という仕事の重みを感じながら、2人はゆっくりと酒を飲み話し出した




