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62/65

62 最後まで

「待ちなさい!」


 逃がしてなるものかと、リーファは最後の力を振り絞りイアンの背を追いかける。

 たった一撃でいい。イアンの足を緩めることができれば、こちらの勝ちだ。

 ほとんど体力を使い果たしているとはいえ、リーファは足の速さには自信がある。

 いつのまにかハイヒールも脱ぎ捨てて、どんどんとイアンとの距離を縮めていく。

 だが――。


「待て!」

「なっ!」


 急に背後から腕を掴まれ、がくんと後ろにバランスを崩してしまう。

 シグルドが強く腕を引いて、リーファの足を止めさせたのだ。


「離せ! イアンが逃げ――」

「見ろ」

「え……?」


 シグルドの視線の先を追い、リーファは思わず息をのんだ。

 大広間を美しく彩る天井画が、見るも無残に燃え盛っている。

 そして、ついには耐えきれずに一部が崩落し――。


「ぁ…………」


 その真下を走っていた、イアンを押しつぶしたのだ。

 前世と今世に渡り計略を繰り広げ、リーファを、エレインを苦しめた男の……なんとも呆気ない最期だった。


(終わった……)


 一気に気が緩んだエレインは、がくりと膝をついてしまう。

 だが、その途端シグルドがぐい、とエレインの腕を引っ張った。


「早く立て、脱出するぞ」


 シグルドの表情には焦りが浮かんでいる。

 その時になってやっと、エレインは周囲を見回し……今の状況を悟った。

 今しがたイアンを押しつぶしたように、あちこちで天井や柱の崩落が始まっている。

 既に激しく炎が燃え盛り、通れない場所もあり、脱出は困難を極めるだろう。

 エレインはなんとか立ち上がろうとしたが、先ほどの戦いで力を使い果たしたのか、もう立ち上がることはできなかった。


「……私はもう走れない。あなただけでも――」

「馬鹿なことを言うな」


 苛立ったようにそう口にしたシグルドが、よろめきながらエレインを抱き上げる。

 だが彼が一歩足を踏み出そうとしたところで、ちょうど二人がいた場所の頭上の天井が燃えながら落下した。


「っ……!」


 間一髪、シグルドは後ろに退避し、巻き込まれずに済んだ。

 だが、退路は塞がれてしまった。

 シグルドの力が緩んだすきに、エレインは彼の腕から抜け出す。


「おい、何を――」

「だから、私を置いて行って! あなた一人なら脱出できるかもしれないでしょ!」


 もはや立つこともままならないエレインに比べ、シグルドはふらつきながらも歩くことができるのだ。

 ……この状況で、外まで辿り着ける可能性は低いだろう。

 それでも、お荷物でしかないエレインを抱えたままよりは、ぐんと生存確率は上がるはずだ。


「……別に、あなたを恨んだりはしないから安心して。これからは私の分までリアナを――」

「ふざけるな」


 真剣な目をしたシグルドが、エレインの前に屈みこむ。

 そして、強く抱きしめられた。


「君は……また俺を置いていこうとするのか」


 縋るような、懇願するようなその声に……エレインは目を見開く。


「シグルド……」

「……君が死んだ後、俺がどんな思いでいたかわかるか」


 シグルドを裏切り者だと思い込み、絶望のままリーファが命を散らした後……シグルドはどうしたというのだろうか。


「祖国を裏切り、君を死に追いやったあの男は俺が殺した。だが……何も救われなかった。やけになって敵陣に切り込み、力尽きるまで……俺の心は死んだままだった」


 痛いほど強く抱きしめられ、吐露される心情に、エレインの胸は熱くなる。


(シグルドも、ちゃんと私のことを想っていてくれたんだ……)


 それだけで、何もかもが報われたような気がした。


「もう、君に置いていかれるのは耐えられない」


 縋るように、エレインを抱きしめる腕の力が強まる。

 燃え盛る業火は、もうすぐ側まで迫っている。

 それでも、エレインは少しも恐ろしくなかった。


「じゃあ……今度は、最後まで一緒にいて」


 きゅっとシグルドの服を掴みながら、小さな声でそう口にする。

 シグルドは一瞬驚いたように目を見開いたが……安心させるように、そっとエレインの髪を撫でた。


「……わかった」


 このまま二人で脱出を試みても、とても成功するとは思えなかった。

 どこかで離れ離れになるくらいなら……最後の瞬間まで、彼の存在を感じていたい。

 そんなエレインの我儘を、シグルドは受け入れてくれた。

 それが……たまらなく嬉しい。

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