62 最後まで
「待ちなさい!」
逃がしてなるものかと、リーファは最後の力を振り絞りイアンの背を追いかける。
たった一撃でいい。イアンの足を緩めることができれば、こちらの勝ちだ。
ほとんど体力を使い果たしているとはいえ、リーファは足の速さには自信がある。
いつのまにかハイヒールも脱ぎ捨てて、どんどんとイアンとの距離を縮めていく。
だが――。
「待て!」
「なっ!」
急に背後から腕を掴まれ、がくんと後ろにバランスを崩してしまう。
シグルドが強く腕を引いて、リーファの足を止めさせたのだ。
「離せ! イアンが逃げ――」
「見ろ」
「え……?」
シグルドの視線の先を追い、リーファは思わず息をのんだ。
大広間を美しく彩る天井画が、見るも無残に燃え盛っている。
そして、ついには耐えきれずに一部が崩落し――。
「ぁ…………」
その真下を走っていた、イアンを押しつぶしたのだ。
前世と今世に渡り計略を繰り広げ、リーファを、エレインを苦しめた男の……なんとも呆気ない最期だった。
(終わった……)
一気に気が緩んだエレインは、がくりと膝をついてしまう。
だが、その途端シグルドがぐい、とエレインの腕を引っ張った。
「早く立て、脱出するぞ」
シグルドの表情には焦りが浮かんでいる。
その時になってやっと、エレインは周囲を見回し……今の状況を悟った。
今しがたイアンを押しつぶしたように、あちこちで天井や柱の崩落が始まっている。
既に激しく炎が燃え盛り、通れない場所もあり、脱出は困難を極めるだろう。
エレインはなんとか立ち上がろうとしたが、先ほどの戦いで力を使い果たしたのか、もう立ち上がることはできなかった。
「……私はもう走れない。あなただけでも――」
「馬鹿なことを言うな」
苛立ったようにそう口にしたシグルドが、よろめきながらエレインを抱き上げる。
だが彼が一歩足を踏み出そうとしたところで、ちょうど二人がいた場所の頭上の天井が燃えながら落下した。
「っ……!」
間一髪、シグルドは後ろに退避し、巻き込まれずに済んだ。
だが、退路は塞がれてしまった。
シグルドの力が緩んだすきに、エレインは彼の腕から抜け出す。
「おい、何を――」
「だから、私を置いて行って! あなた一人なら脱出できるかもしれないでしょ!」
もはや立つこともままならないエレインに比べ、シグルドはふらつきながらも歩くことができるのだ。
……この状況で、外まで辿り着ける可能性は低いだろう。
それでも、お荷物でしかないエレインを抱えたままよりは、ぐんと生存確率は上がるはずだ。
「……別に、あなたを恨んだりはしないから安心して。これからは私の分までリアナを――」
「ふざけるな」
真剣な目をしたシグルドが、エレインの前に屈みこむ。
そして、強く抱きしめられた。
「君は……また俺を置いていこうとするのか」
縋るような、懇願するようなその声に……エレインは目を見開く。
「シグルド……」
「……君が死んだ後、俺がどんな思いでいたかわかるか」
シグルドを裏切り者だと思い込み、絶望のままリーファが命を散らした後……シグルドはどうしたというのだろうか。
「祖国を裏切り、君を死に追いやったあの男は俺が殺した。だが……何も救われなかった。やけになって敵陣に切り込み、力尽きるまで……俺の心は死んだままだった」
痛いほど強く抱きしめられ、吐露される心情に、エレインの胸は熱くなる。
(シグルドも、ちゃんと私のことを想っていてくれたんだ……)
それだけで、何もかもが報われたような気がした。
「もう、君に置いていかれるのは耐えられない」
縋るように、エレインを抱きしめる腕の力が強まる。
燃え盛る業火は、もうすぐ側まで迫っている。
それでも、エレインは少しも恐ろしくなかった。
「じゃあ……今度は、最後まで一緒にいて」
きゅっとシグルドの服を掴みながら、小さな声でそう口にする。
シグルドは一瞬驚いたように目を見開いたが……安心させるように、そっとエレインの髪を撫でた。
「……わかった」
このまま二人で脱出を試みても、とても成功するとは思えなかった。
どこかで離れ離れになるくらいなら……最後の瞬間まで、彼の存在を感じていたい。
そんなエレインの我儘を、シグルドは受け入れてくれた。
それが……たまらなく嬉しい。




