59 きっと、帰れない。
「火の手が上がったぞ!」
シャンデリアのキャンドルが会場に燃え移ったのか、焦げるような臭いと人々の悲鳴が聞こえる。
我先にと出入り口へ殺到する人々の波に逆らうようにして、エレインは歩き出した。
大広間の奥で待ち構える、排除すべき男の下へ。
「おや、逃げないんですか」
「あなたを始末するまでは、逃げるわけにはいかないわ。あなたこそ、待っていてくれるなんて優しいのね」
皮肉を込めてそう口にすると、イアンは意地の悪い笑みを浮かべた。
「前世の記憶を保持している分、あなたを野放しにするのはユーゼル・ガリアッド以上に危険そうですからね。ここで確実に討ち取っておきたい」
「同感ね。私もここで確実にあなたを討ち取っておきたいのよ」
「こうして再び剣を交えられるのを嬉しく思いますよ、リーファ。前世ではあなたに敵いませんでしたが……今の甘っちょろいあなたになら負ける気がしない」
そう言い放つと、イアンは一息に重い僧衣を脱ぎ捨てた。
露になったのは、神官というにはあまりに鍛え上げられた肉体だ。
ユーゼルへの復讐を忘れていないというだけ会って、神官という身ながら日々鍛錬を絶やさなかったのだろう。
こんな状況なのに、エレインは素直に感心しそうになってしまう。
「なるほど、モヤシ神官かと思っていたけどやるじゃない」
「ドレスと宝石に目がくらんだあなたとは違いますから。その細腕で僕を討ち取れるとでも?」
「……試してみてはいかが?」
「えぇ、もちろん」
二人の視線がぶつかり合う。
それが、合図だった。
次の瞬間、二人は同時に地面を蹴り駆け出した。
イアンが素早く突進し、剣が空中で銀色の筋を描く。
見事な一閃だが、エレインは流れるような優雅な動きで彼の攻撃を避ける。
その動きは、戦いというよりも舞い踊るように美しかった。
間髪入れずに、エレインは反撃に転じる。
蜂が刺すように素早く、イアンの急所を狙って突きを入れる。
だがイアンも負けてはおらず、力強い動きでエレインの一撃を弾いた。
鉄と鉄が激しくぶつかり合い、火花が飛び散る。
二人同時に飛び退き、距離を取る。
視線が合うと、イアンはにやりと笑った。
「随分と弱くなったな、リーファ。昔の君なら、さっきの一撃で仕留めていただろう」
「もう少しあなたと踊りたかったのよ。女心がわからない無粋な男ね」
余裕の笑みを浮かべながらも、エレインは内心で焦りを覚えていた。
イアンに指摘されるまでもなく、自身の動きが精彩を欠いていることにエレインは気づいていた。
(おかしい、こんなに体が重いなんて……)
ドレスを着ているから、だけでは説明がつかないほど、体が重くてたまらない。
それも、時間が経つほどにどんどん症状が重くなっていくのだ。
イアンに悟られないようにまっすぐ背筋を伸ばして立っているが、今すぐにも膝をついてしまいそうなほど不調は明らかだった。
「リーファ、君の戦い方はひどく高潔で美しい。だが、それだけでは足りないと学ぶべきだな」
「……何が言いたいの」
「君が剣を構える前に戦いは始まっていて……君は既に勝負に負けていたということさ」
イアンの意味の解らない言葉にエレインは一瞬眉根を寄せ……すぐにその真意を悟った。
「あの不快な香り……体を麻痺させる効果でもあったのかしら」
「さすがはリーファ、察しが良いね。だが気づくのが遅すぎる」
エレインはあの時警戒しなかった自身の浅はかさに舌打ちした。
だが、過ぎてしまったことをいつまでも悔いても仕方ない。
(……大丈夫。完全に動けなくなるまでに、イアンを仕留めればいいだけよ)
背筋を冷や汗が伝う。剣を掴む手が震える。
だがそれでも、退くわけにはいかないのだ。
(ユーゼルは、大丈夫かしら……)
炎は燃え広がり、だんだんと大広間の温度が上がっていく。徐々に白煙が広がり、視界を奪い始めている。
だが、招待客たちの喧騒はどんどんと遠ざかっていく。
おそらくはリアナやユーゼルを含む舞踏会の参加者たちは既に退避し、残っているのはエレインとイアンの二人だけなのだろう。
(ごめんなさい、リアナ)
きっと、エレインは帰れない。
(でも絶対に、あなたとユーゼルは守ってみせるから……!)
生きて帰ろうなどと言う甘い考えは捨てろ。
全身全霊を尽くして、どんな手を使ってでも目の前の男を討ち取ることだけを考えろ。
(相打ちに持ち込めれば、それでいい)
そう自分に言い聞かせ、エレインは強く床を蹴った。




