56 忘れられるわけがない
「御機嫌よう。神官様もこちらにいらっしゃっていたのですね」
なんとか笑顔を取り繕ってそう声をかけると、イアンは先ほどとは打って変わって人畜無害な笑みを浮かべた。
「これはこれはエレイン様。お会いできて光栄です。神に仕える身でこのような華やかな場に身を置くのは気後れしますが……こうして皆さまとお話させていただくのも布教の一環ですから、ご容赦ください」
あからさまに猫被った態度のイアンに、エレインは舌打ちしたくなった。
しかし、この場にイアンがいるのは有難い誤算だ。
……うまくいけば、今夜にでも、最後の憂いを取り除くことができるかもしれない。
(私は、今のユーゼルと一緒に生きることを決めた)
彼の前世が裏切り者だったとしても、それはユーゼルの罪ではない。
何もかも忘れて……とはいかないだろうが、「シグルド」ではなく「ユーゼル」を見ようと決めたのだ。
だから、ユーゼルを殺そうとしているこの男を……野放しにするわけにはいかない。
(素直に話して改心してくれるようならそれでいい。どうしても復讐を諦めないと、ユーゼルを殺そうというのなら……私が排除する)
エレインの瞳に、ぎらりとした闘志が宿る。
その変化に気づいたのか、イアンは意味深な笑みを浮かべた。
「ふふ、今宵のエレイン様は一段と美しくていらっしゃる……。よろしければ、一曲お相手願えますか?」
「えっ?」
イアンの言葉に、驚きの声を上げたのはリアナだった。
「あの、イアン様……踊られるのですか?」
この様子だと、今までイアンはこうした場で踊ったことはなかったのだろう。
おろおろと問いかけるリアナに、イアンは静かに口を開く。
「えぇ、お恥ずかしながらダンスの経験はほとんどなく、今までは踊るのを控えていたのですが……先ほどのエレイン様のダンスは非常に素晴らしかったので。是非レクチャーしていただきたく」
「ダ、ダンスでしたらわたくしもご教授できます……! いえ、その……エレイン姉様はお兄様と婚約されたばかりですし……」
リアナはイアンに淡い恋心を抱いているのだ。
意中の相手がいくら婚約者持ちと相手とはいえ、別の女性をダンスに誘うとなれば心穏やかでいられなないのも当然だ。
もちろん、イアンだってリアナの心中はよくわかっているだろう。
それなのに――。
「お気持ちは有難いのですが、リアナ様はまだ婚約者もいらっしゃらない身でしょう。私があなたと踊ってしまっては、あなたを恋い慕う男性から恨まれてしまいます。その点エレイン様は既にガリアッド公爵と婚約されている身。神官である私と踊っても、社交の一環だとしか思われないでしょう」
一見諭すような言い方をしているが、彼の声にリアナを弄ぶような響きを感じ取り、エレインはぐっと拳を握り締めた。
(よくも、女王陛下にそんな口が利けるわね……)
……前に会った時から、片鱗は感じていたのだ。
彼は、エレイン以上にユーゼルへの復讐「だけ」に囚われている。
そのために、守るべき主であるリアナを利用するほどに。
(やっぱり、私と彼とは相容れない)
どんな手を使ってでも、決着をつけなくては。
目的のためとはいえ、リアナの心を傷つけてしまうだろう。
だが、それ以上に……エレインはユーゼルとリアナを守らなくてはならないのだ。
「えぇ、そういうことでしたら、喜んでお相手いたしましょう」
軽くスカートを摘まんでお辞儀をすると、イアンの目が愉快そうに細められた。
「少しイアン様をお借りするわね、リアナ。ユーゼル様が来たらうまく誤魔化しておいてくれると嬉しいわ」
「は、はい……」
少し不安そうなリアナに心が痛むのを感じながら、エレインはイアンの手を取った。
先ほどユーゼルの手を取った時とは違い、ぞわりと背筋に悪寒が走る。
それでもなんとか笑顔を取り繕い、エレインはイアンと共にダンスフロアへと歩み出した。
密着した目の前の男からは、神官には似つかわしくない妖艶な甘い香りがした。
こんな香りを漂わせながら、リアナに声をかけたのだろうか。
その状況を想像すると不快感が押し寄せ、エレインは内心で舌打ちをする。
「……まさか君のこんな姿を見られる日が来るとは思っていなかったよ、リーファ」
二人で踊り始めて早々に、イアンはからかうようにそう口にした。
前世で暴れイノシシのようだったリーファが、今は貴族令嬢として着飾り踊っているのを揶揄しているのだろう。
「あなたこそ、びっくりするほど僧衣が似合ってないわ。胡散臭い詐欺師にしか見えないわよ、イアン」
売り言葉に買い言葉でそう言い返すと、イアンは愉快そうに口角を上げる。
「喧嘩っ早いのは相変わらずだね」
「昔だって喧嘩を売る相手はちゃんと選んでいたわ」
「なるほど、君にとって今の僕は『喧嘩を売っていい相手』ということか」
「えぇ」
挑戦的に微笑むと、イアンは不快そうに眉根を寄せた。
「……理解できないな。シグルドは僕たちの共通の敵だろう。君は、奴が僕たちにしたことを忘れたのか?」
……忘れていない。忘れられるわけがない。




