35 忘れられない人
広い寝台に体を横たえ、ぎゅっと枕を抱きしめる。
(シグルド……)
ユーゼルと言い合いになったからだろうか。
どうしても、彼のことばかり考えてしまう。
ユーゼル……いや、彼の前世であるシグルドのことを。
彼は記憶を失った状態で、エレインの前世であるリーファに保護された。
女王に命じられた通り、リーファは献身的にシグルドの世話をした。
――「ほら、着替えを持ってきたわ。脱いで」
――「……そのくらい自分でできる。君には慎みというものがないのか?」
シグルドはとにかく寡黙で、不愛想で、コミュニケーションが取りにくい青年だった。
最初の内は、リーファもとにかく苦労したものだ。
だが、共に過ごすうちに少しずつ、リーファにはシグルドの感情が読み取れるようになっていった。
――「このスープ。特別に作ってもらったの。前に食べた時、お代わりしてたでしょ?」
そう言ってなみなみと野菜スープの入った椀を差し出すと、シグルドは驚いたように目を丸くした後、気まずそうに視線を逸らす。
――「……別に、頼んでない。…………だが、せっかくだから頂こう」
そう呟くシグルドの目には、どこかほっとしたような穏やかな光が宿っていた。
これは「ありがとう」「嬉しい」のサインなのだろう。
そう気づくと、俄然楽しくなってきた。
シグルドのわずかな表情や声色の変化から、彼の感情を読み取るのだ。
わずかに眉間に皺が寄るのは、不快のサイン。
ぐっとテーブルの下でこぶしを握っている時は、何かを警戒している。
口元に手を当てている時は、何か思案することがあるのだろう。
真っすぐにこちらを見つめている時、瞳孔が開いているのなら、こちらに興味を持っている証だ。
――「いや、そんなの判別できるのリーファ隊長だけですよ」
――「そうかしら……。よくよく観察してればわかると思うけど」
――「そもそも、彼が多少なりとも心を許しているのがリーファ隊長だけなんですから。他の人が話しかけても、まともな返事が返ってこないんですよ」
仲間たちはそう言って笑った。
どうやらシグルドは警戒心が強いらしく、この城で最初に親しくなったリーファ以外とはまともに会話すらしないらしい。
リーファとしては別にそれでもいいのだが、記憶のないシグルドがこの場所で暮らしていくとなると、少し問題も出てくるのだろう。
そこで、リーファが思いついたのがもう一つの対話法だ。
――「言葉で話すのが苦手なら、剣で語り合ってみない?」
そう言って訓練用の剣を差し出した時、シグルドは初めてわかりやすく表情を歪めた。
――「……君は、頭まで筋肉でできているのか?」
――「よくそう言われるわ。実際のところはみたことないからわからないけど、拳と拳、剣と剣で語り合えばもっとわかり合えると思うの。あなたが望むのなら拳でもいいけど、どうする?」
――「剣を借りる」
いくら相手が女騎士とはいえ、拳と拳で殴り合うのは気が引けたのだろう。
シグルドは渋々といった調子で剣を取った。
リーファは彼の手を引くようにして、訓練場へと誘った。
別にリーファとて、見境なく行き倒れていた人間に力試しを挑んでいるわけではない。
シグルドと過ごすうちに、気づいたのだ。
……おそらく彼の身のこなしは、何か武芸を嗜む者の動きであると。
そうであるならば、体を動かしているうちに勘を取り戻すかもしれない。
小手調べに軽く剣を打ち合い、リーファはすぐに悟った。
……やはり、シグルドはただものじゃない。
きっと記憶を失う前は、相当な実力者だったのだろう。
……できれば、記憶を失っていない状態の全盛期の彼とやり合いたかった。
武人の性として、そんなことを考えてしまうほど。
いつしか夢中になって、リーファはシグルドと剣を打ち合った。
普段から訓練しているリーファの同僚ですら音を上げる激しい動きにも、シグルドは病み上がりとは思えない機敏な動きでついてくる。
――「すごいっ……! シグルド、あなたなら立派な騎士になれるわ! ねぇ、私と一緒にこの国を守るために戦いましょう!」
思わず彼の両手を取ってそう告げたリーファに、シグルドは少し気まずそうに視線を逸らした。
だが、リーファは知っている。
彼がこうする時は、ただただ照れているのだと。
――「……今まで世話になって恩があるからな。その分は働いて返すつもりはある」
――「ありがとう、シグルド。あなたがいれば百人力よ!」
嬉しさのあまり抱き着くと、シグルドは驚いたように身を固くした。
リーファと仲間たちの間では当たり前のボディランゲージも、彼にとっては慣れないものらしい。
――「……君は、誰にでもそうするのか?」
――「だって、減るものじゃないし。別にいいじゃない」
――「君も女性なのだから、もっと慎みを持て」
ゆっくりとリーファの体を引きはがし、シグルドは言い聞かせるようにそう告げた。
誰かにそんなことを言われるのは初めてで、リーファはぽかんとしてしまう。
幼い頃から「暴れ馬」「イノシシ」と称されるリーファを、こんな風に女性扱いしてくれたのはシグルドが初めてだったのだ。
……目の前の青年は、自分のことを女の子だと思ってくれている。
そう思うと急に恥ずかしくなって、リーファはぱっとシグルドから距離を置いた。
――「あ、あなたがそう言うの鉈、気を付けるわ……」
――「……あぁ、そうしてくれ」
そう言って視線を逸らしたシグルドの頬が、わずかに赤くなっていたのを覚えている。
きっと、あの時からだ。
あの信頼や友愛とは違う、甘酸っぱい確かな感情を、結局リーファは最後まで言語化することができなかった。
だが、今ならばわかる。
エレインとして生まれ変わっても、彼のことばかり考えてしまうのは。
ユーゼルに「そんな男のことは忘れろ」とシグルドの存在を否定された時、どうしてあんなに熱くなってしまったのか。
どうして……ずっとずっと彼のことが忘れられないのか。
「私……シグルドのことが好きだったんだ」
そう口にした途端、胸の奥底から切なさが沸き上がってくる。
(今更、気づくなんて……)
彼は裏切り者なのに。
リーファに優しくしてくれたのも、すべて彼の策略だったかもしれないのに。
だが、それでも……胸の奥に芽生えた想いだけは消せそうになかった。
「なんで、今になって気づいちゃうのかなぁ……」
熱くなった瞼を、抱きしめた枕に押し付ける。
実らなかった初恋の相手は、リーファの大切にしていたすべてを奪った宿敵で。
おまけに、生まれ変わった今の婚約者で。
エレインはこんなにも彼のことが忘れられないのに、ユーゼルはすべてをきれいさっぱり忘れてしまっている。
「そんなの、ずるいじゃない……」
こんなとき、どうすればいいのかわからない。
だってこんな風に、どうしようもないほど誰かを好きになるのは初めてだから。
込み上げる熱い思いが、嗚咽となって喉から飛び出しそうになってしまう。
ぎゅっと枕に顔を押し付けて、エレインは静かにむせび泣いた。




