34 あなたにはわからない
「はぁ……」
その晩、エレインは一人バルコニーで星を眺めていた。
グレンダを利用してエレインの社交界での立場を失墜させ、ユーゼルが婚約破棄をせざるを得ない状況に持っていくはずだったのに。
何故かグレンダには気に入られ、ユーゼルには婚約破棄どころか「我が妻」宣言までされてしまった。
「おかしい……」
「何がおかしいんだ?」
「ぎゃっ!」
急に、もはや聞きなれた声が耳に届き、エレインは弾かれたように振り返る。
想像通り、そこにいたのはエレインの婚約者――ユーゼルだった。
「ノーラン侯爵からもお礼状が届いていたよ。君に対しては『どうか娘と仲良くしてやってほしい』とも」
「やっぱりおかしいわ……。ノーラン侯爵令嬢は、あなたに懸想していたと伺っていましたが」
「君の魅力には抗えないのだろう。その気持ちはよくわかる」
くすりと笑ったユーゼルがゆっくりとこちらへ近づいてくる。
思わず身構えるエレインに、ユーゼルは愉快そうに目を細める。
「その難攻不落なところも俺の興味を引いてやまない。どうか、君を攻略する最初の男になりたいものだ」
「……言ってて恥ずかしくないんですか、それ」
「何が恥ずかしいものか。君の魅力の前では、俺などただ愛を乞うだけの男だ」
「……やめて」
やっぱり、彼を前にすると調子が狂ってしまう。
その目で見つめられると、甘い言葉をかけられると、冷静な思考ができなくなってしまう。
……それが、怖い。
彼は許さざる宿敵なのに。すべてを奪われた相手なのに。
……いつか、ほだされてしまうのではないかと、それが恐ろしい。
「今も、星の光に照らされた君はいつも以上に輝いていて触れれば消えてしまいそうで恐ろしい」
……やめて、そんな風に言わないで。
彼への復讐心が消えてしまうのが怖い。
あの苛烈な感情を、忘れてしまうのが怖い。
前世で自分が生きた証が……シグルドとともに過ごした日々が、塗りつぶされてしまうようで。
いつもだったら耐えられた。
だが、何もかもが自分の思った通りには進まないこの状況で、エレインの精神も疲弊していたのかもしれない。
だから、普段なら絶対に口にしないような言葉が飛び出してしまったのだ。
「君の存在こそが、俺の唯一の――」
「やめて! シグルドはそんなこと言わない!」
シグルドの名を出したのは、わざとじゃなかった。
頭がぐちゃぐちゃになって、つい出てしまったのだ。
だがその途端、急に接近してきたユーゼルに強く腕を掴まれ、エレインは思わず息をのむ。
見れば、数秒前まで甘く溶けていた翡翠の瞳が、今は底冷えするような冷たい光を宿し、こちらを射抜いている。
「……また、その名前か。フィンドール王国でもその名を呼んでいたな」
どうやら、ユーゼルは覚えていたらしい。
ごくりと唾を飲むエレインに、ユーゼルは不快そうに口を開く。
「誰なんだ、そいつは」
(あなたが、それを言うの……)
ユーゼルは自分の前世が「シグルド」という人間であったことを知らない。
だが、彼自身にそう言われるのは……まるでシグルドの存在が――前世でエレインが大切にしていたすべてが否定されたような気がして、胸がきしんだ。
思わず視線を逸らしたエレインに、ユーゼルは軽く舌打ちする。
「誰だか知らないが、今の君は俺の婚約者なんだ。そんな男のことは忘れろ」
その言葉が耳に届いた瞬間、エレインは自分の心がばらばらに砕け散ったような気がした。
(忘れろ、なんて)
夢中で駆け抜けた、あの楽しかった日々も。
敬愛する女王のことも、信頼する仲間たちのことも、何より……リーファとシグルドが共に過ごした、かけがえのない時間のことも。
(あなたにとっては、その程度だったの……?)
だから、国を、リーファを裏切ったのだろうか。
(私は、あなたになら命すら預けられると思っていたのに……)
リーファはシグルドを信頼していた。安心して背中を預けられる唯一の相手だった。
シグルドも……同じ思いでいてくれると思っていたのに。
すべてリーファ――エレインの、独りよがりだったのだ。
俯いて唇を噛むエレインをどう思ったのか、シグルドは足早に距離を詰めてくる。
「……すぐに忘れさせてやる」
顎を掬われたかと思うと、息をつく暇もなくユーゼルの顔が近づいてくる。
そして、唇が触れあう寸前に――。
「あなたにはわからないわっ……!」
エレインは渾身の力でユーゼルを突き飛ばす。
ユーゼルとの距離が開いた隙をついて、エレインはその横を縫うようにして駆け出した。
……ユーゼルは追いかけてこなかった。
エレインは無我夢中で走り、自室へ戻った途端その場にへたり込んでしまった。
「奥様、どうなさいました!?」
「……なんでもないわ。今日は少し疲れたから、もう休ませてちょうだい」
悲しみで胸が押しつぶされそうだ。
ユーゼルが前世の記憶を覚えていないことなんて、最初からわかっていたのに。
だが、彼自身の言葉で……「シグルド」の存在を否定するようなことを言うのだけは、許せなかった。




