14 アジタート
夏休みに入ると、各地で集中セミナーが開かれる。
有名なピアニストが講師に招かれるセミナーは人気が集まる。
そういったセミナーでは事前オーディションが開かれたりもする。
受賞歴が多い俊久はオーディション無しの招待が来ていた。
それでも基本は美保子の元でレッスンを受ける。
雅は早々に治樹と共にウィーンに渡った。
コンクールに出ない雅にも、コンクール事務局宛に送る審査のための書類に音楽活動歴や音楽家からの推薦状が必要なのだ。
ウィーンフィルの常任指揮者のエッカルト・メッテルニヒからの推薦状と、夏のウィーンでの演奏活動を記録として提出する。
エッカルトは事前に楽団員にミヤビのウィーン帰還を仄めかしていた。
真夏のあの夜の夢から10年も経っていない。
当時居なかった若手の団員ですらミヤビの事は知っていた。
今年はアンコール用ではなく、最初からミヤビと協奏曲でセッションする。
何らアナウンスをしなくても、楽団員の口から市井にその話が広がった。
「お久しぶりです、マエストロ・メッテルニヒ」
雅がそう挨拶すると、エッカルトは肩を竦める。
「ミヤビ、エッカルトおじ様と呼んでくれないのかい?拗ねて推薦状を渡さなくてもいい?」
オーバーアクションで悲しそうにそう言うと、雅が慌てて訂正する。
「いえっ、推薦状を貰うのですからきちんと巨匠とお呼びしなくちゃって…お会いしたかったです、エッカルトおじ様」
そう言った雅に、満足そうにエッカルトが頷く。
「私もだよミヤビ。未だ誰も知らない才能をこの巨匠が知ってるという優越感が欲しいと思っても仕方がないだろう?」
今年の夏は、野外コンサートだけでなく、エッカルト率いる楽団の夏のコンサートに雅を帯同させる予定で、ウィーンだけに留まらず欧州の数か国にも渡る。
やりすぎではないかと治樹からクレームが出たほどだ。
「私の愛弟子をひけらかしたいんだよ。ハルキは相変わらずミヤビを囲い込もうとしてどうするつもりだ」
エッカルト・メッテルニヒがこのところピアノのパフォーマンスをする事は殆どない。
だから夏の間だけでも、雅を育てたいと思い続けてきた。
治樹も他者の手に任せるのでなく、長年の親友であるエッカルトに託してきたのだ。
基本的に弟子を取らないエッカルトが、最初こそ治樹に頼まれてだったが、個人的に雅の才能に惚れ込んで喜んで指導をやっている。
雅が治樹の娘だと知れた時に、余りにも治樹の演奏に近いと妙な勘繰りを入れられても困る。
治樹達がまだ学生だった頃は、音楽の世界は新しい才能を求めていた。
だからこそ治樹は栄冠を手にして今尚第一人者で居られる。
ところが昨今のコンクールでは、誰が誰の弟子であり派閥であるのかという、既存の名手達の縄張り争い的な位置付けに変わってきている。
「囲い込むつもりなんてない。ただあの子を守りたいという親なら当然の感情を持っているだけだ」
「ハルキは怖いのか。自分の娘に自分の地位が脅かされることが」
「そんなことはない。今の楽界が汚な過ぎるんだ」
「そうだ、その通りだ。知ってるかハルキ。来年のショパンコンクールの審査委員長が前回に続いてマーカス・アンダーソンだ」
そう言われて治樹は黙り込んだ。
アメリカ人のアンダーソンは過去のショパンコンクールで5位に入賞している。
その時はロシア人のピアニストが優勝したが、コンクール後にプロピアニストとして頭角を現し、活躍したのはアンダーソンの方だった。
―――審査に国籍や人種による差別があったのではないか。
不透明な採点の基準。
当時からそれは囁かれていた。
現にアンダーソンは3位以内に入るべきだったという声が多く聞かれた。
エッカルトもそう思った一人だった。
前回のショパンコンクールで、アンダーソンはその長として審査員の席に着いた。
そして彼の思惑通り、アメリカから第1位のピアニストを輩出した。
彼は自分が過去に受けるべきだった筈の栄誉を、同国の弟子に与えたのだ。
復讐を果たしたのだ。
ならばもういいだろう?とエッカルトは考える。
「自分が同じ事をやってるんだから、今はもうあの男に同情する気持ちはきれいさっぱりなくなった。それどころか、欧州全体でクラシックピアノのコンクールに挑もうとする若者が減っている。出来レースなんかには興味を持たないって事だ。それが欧州全体での質の低下に繋がっている。だから私もそれに意趣返しをしたいんだよ」
だからこそのエッカルトの存在。
治樹が溜息を吐いた。
「君の野望に私の娘を利用するのはやめてくれないか」
エッカルトは悪戯っぽく笑う。
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。私はただ、楽界をあるべき姿に戻したいと思っていて、その上でミヤビの才能をきちんと評価されるべきだと思ってるだけだ」
欧州全体のクラシック音楽の生き残りをかけた戦いの場にする。
雅や俊久達コンクール出場者が知らない場所で渦巻く策謀。
「雅は純粋に、ショパンが好きなだけなんだ」
だから出させたくないという治樹に、エッカルトが苦笑する。
「知っている。だからこそ私はミヤビが評価されるべきだと思ってる」




