13 ロンド
気が付いたらピアノが好きで。
音楽が好きで。
ショパンが好きで。
誰と競うことなく、ただピアノを愛していた。
欲しいものを考えた事が無かった。
ただ一度、父に連れられて行ったウィーンでオーケストラと一緒に演奏した「発表会」が楽しかった。
多くの人に拍手を貰って、自分のピアノが好きだという意思表示を貰えた。
認められたというのではなく、自分の想いの発露をそれでいいんだと言ってもらえたような安心感。
エッカルトおじ様やアメリ―だけじゃない、他の人にも自分の気持ちが伝わった嬉しさ。
「たか君、ありがとう。私の欲しいもの、わかった気がする」
「へえ、それは、よかったね?」
「ショパンに私の気持ちを届けたい!誰より私が一番愛してるって気持ちを。そしてショパンからも私のピアノが好きって思って欲しいんだって」
ズコっと嵩久が椅子からずり落ちるかと思った。
「はは、あー、そう。うん、応援してる」
「ありがとうたか君!とし君は絶対応援してくれなさそうだから嬉しい!お父さんはダメって言うかもしれないけど、何とか説得する!」
ずっと沈んでいた雅の顔が明るく晴れている。
雅が嵩久の両手を取ってぶんぶんと揺らしている。
―――うわっ、これ兄貴に知れたら絶対ボコられるやつ!
そう思った嵩久の願いも虚しく、あっという間に「河雅は横村兄弟の3年生の兄を振って1年生の弟と付き合ってる」なんていう甚だ迷惑な噂が拡がった。
暫く俊久の風当たりが強かったのは言うまでもない。
その噂を否定して回った嵩久の努力(=雅の想い人とはショパンの事であるという説明)が報われたのはその少し後の話。
嵩久は俊久から『本当に欲しいもの』を聞いていた。
雅の持った疑問は当然の如く嵩久も抱いていたからだ。
「ショパンコンクールを制覇したい」
「何で?もうコンクールなら一杯受賞してるじゃん」
「違うんだよ。未だ年齢的に出場資格が無いんだ」
ショパンの名前は雅からも聞いていた。
―――兄貴、それって雅ちゃん絡みだろ?
その言葉が喉まで出掛かった。
雅がショパンへの愛の告白をする目的ならば、恐らく俊久はショパンに喧嘩を売る気なのか。
いや、違うな。
自分が雅の想い人と一体化して、彼女の心を自分に向けさせたいのか。
「なあ、雅ちゃんは兄貴の事誤解してるよ多分。好きだって言っちゃえば」
そう言うと、俊久は不機嫌に嵩久を睨んできた。
中学生の時期にありがちな、ほんわかした恋愛ごっこは嵩久の周囲でも散見される。
「そんなの雅ちゃんにとってただの雑音でしかない」
一途で頑固で重いぐらいの執着めいた想いを抱えているのは何も俊久だけではない。
雅への想いは、とっくに美保子にもバレている。
『あの子、誰に似たのかわからないけど、俊久君も前途多難ね』
美保子は苦笑してそう言っていた。
思春期にありがちなふわっとした恋心ではなく、最初に出会った頃の子供の時からずっと抱えてきた重すぎるくらいの執着に、美保子も最初はどうしたものかと戸惑っていたくらいだ。
それが俊久の音楽への原動力になるのならまあいいか、と自分の娘の存在すらちゃっかり利用してしまった。
当の雅が現実の男の子に興味を持たないのは俊久にとっても都合が良くもあり、悪くもあった。
少なくとも自分以外の男には―――ショパンを除いて―――心を奪われることはないだろうと思えたから。
とはいっても、それが何時までも不変である補償は何もなかった。
『ライバルが強敵すぎるもの。ショパンの音楽は魅力的だから』
美保子は笑って言うけど、俊久にとっては笑い事じゃない。
『先生にとっても、治樹さんより魅力的ですか?』
比較対象としてどうなのかと思ったが、気になって訊いてみた。
『私はね、主人が弾くショパンが一番好きよ』
惚気なのか本気なのか。
意図がつかめないままその返事を受け取った俊久は、ほんのり耳を紅く染めた。
―――多分、それが僕の望む雅ちゃんの魂なんだ。ショパンを好きな雅ちゃんごと僕はあの子を好きだし、僕のこともそう見て欲しい。
ショパンを全く見ようとせず自分にだけ夢中になる雅なんて考えられない。
だからこそ、俊久は最終的な目標にショパンコンクールを据えた。
自分にとっての最後のコンクールにするために。




