12 夜想曲
「まあ兄貴の場合、先生が良かったってのもあるんだけど、それは先に雅ちゃんありきだと俺は思うんだよ」
嵩久が母親にそう言ったことがある。
美保子は河治樹が自分のライバルと言っている相手である。
勿論美保子自身の腕は疑いようがない。
雅が小学生の頃にお泊りしに来た日に、嵩久は偶然見てしまった。
川の字になって寝ていて、つい嵩久が布団を蹴飛ばして目が覚めてしまった。
寝息を立てていたのは雅だけで、兄の寝息がしてこない。
薄目を開けて暗闇に目を凝らせば、俊久が雅の長い髪を指に巻き付けてずっと弄んでいるのが目に入った。
―――サラサラで、触ったら気持ち良さそうだよなあ。
そう思って嵩久も触れようと手を伸ばそうとしたら、はあ、と兄の溜め息が聴こえた。
まるでそれを見咎められたような気がして、嵩久はそれ以上手を伸ばせなくなった。
小学生だった当時はわからなかったけど、思春期に突入した今ならわかる。
2歳年上の兄は、自分より一足先に思春期を迎えていた筈だ。
何時からそうだったのかは知らないけど、兄の根幹の深い所に雅ちゃんの存在がある。
好きとか恋とかで括っていいのかわからないほどの、普段の俊久からは想像できないくらいの激しい情熱。
普段一緒に生活していても見たことのない姿だった。
触れようと思えば手が届く所に居る可愛い女の子。
でもそれは間違いなく大人しい筈の兄の逆鱗だった。
雅と嵩久は同い年で、中学までは同じ学校に通っていた。
俊久も同様である。
ある時、雅の泣きそうな声が聞こえた。
「もうやだ!とし君嫌い!」
何だ何だと嵩久がそちらを見ると、長い髪を手で押さえた雅がクラスメイトに愚痴っていたところだった。
「とか言っちゃってぇ。”とし君”とか特別感出して呼んでる時点で違うでしょ」
「それは幼馴染だからそう呼んでるだけ!お母さんの教室の生徒だし」
「あれは雅ちゃんのこと好きなんだと思うなあ」
「だったら痛いことしないでほしいの!髪引っ張られたら痛いんだから!この前うっかり後ろに転びそうになって怖かったんだから」
うっかり後ろによろめいたら抱きしめて支えるつもりだったんだろうな、あの隠れスケベな兄貴は。
そんな風に思っていた数日後、雅は長かった髪をばっさりと切って登校してきた。
クラスメイトや嵩久だけでなく、それを見た俊久も衝撃を受けた様だった。
明確に、俊久は雅に拒絶されたのだ。
その日の事は帰宅してからの事もずっと覚えている。
ただでさえ親すらも『何を考えているのかよくわからない』と言っている俊久の周囲に木枯らしどころかブリザートが吹き荒んでいた。
恋愛事に疎い雅相手に下手打ったのは間違いなかった。
「兄貴、今日雅ちゃんが髪切って来ててさ。知ってた?髪切っても可愛かったなあ」
今思えば俊久の傷口に塩どころか辛子味噌でも塗りたくった言葉だったと思う。
と、嵩久は当時の自分を反省している。
学校ですれ違いざまにでも微笑む事すらなくなった。
その代わりに雅が嵩久と話す機会が増えた。
とはいっても音楽にはあまり縁のない嵩久との話題は、何故か嵩久の方から振って来る俊久の話題だった。
どのコンクールに出たとか、結果がどうだったとか。
俊久や美保子と話さなくても、嵩久経由でその情報が入ってきた。
「でもさ、兄貴、インタビューの時は胡散臭いくらいの笑顔で喋ってんのに全然笑ってないんだよ。家でもトロフィーやメダルは無関心で、母さんが居間に飾ってるけど興味ないみたいで」
「…それでもコンクールに出続けるの、何でだろう?」
―――お?
雅ちゃんが兄貴に興味持ってくれてるぜ。
俺に感謝しろよ兄貴。
「さあ?よくわかんないけど、本当に欲しいものは他にあるからなんだって」
「本当に欲しいもの…」
「あの通り兄貴は言葉少ないし、何なら足りないくらいだから俺にもよくわかんねえけどさ」
…本当は知っている。
「とし君はピアノで言葉を伝えようとしてるってお母さんが言ってた」
あれ、美保子先生に先回りされてたのか。
「だからよく耳を澄ませて、しっかりとし君の音を聴いてって言ってた。私に足りないものがとし君の音にはあるからって」
落ち込んだような、悔しそうな顔をする雅。
…あーホント可愛いな。
兄貴じゃなくても抱きしめてヨシヨシしたくなるような。
やったら俺兄貴に恨まれて家に帰れなくなりそうだからやんないけど。
「本当に欲しいもの、かあ…私が欲しいものは」
そう言いかけて雅は言葉を止めた。




