初陣 4
時間が経過して、夜勤中の詩織さんが突然何かに驚いたようにナースステーションの椅子を引っ繰り返して立ち上がると、廊下を走り出した。
駆け付けたのは美貴のお母さんの部屋だった。
急変し苦しそうに息をしている患者に駆け寄ると、詩織さんの手を掴まえた美貴のお母さんが言った。
「……このまま逝かせて……、死ぬところをあの子に見せたくない……」
―――それが詩織さんと美貴のお母さんの二人だけの秘密だった。
詩織さんは母親を失った美貴に会っていたのだ。
それが、美貴のお父さんの心を動かして自然と再婚という流れに乗ったのだろう。
泣いている幼い美貴。
怒っている小学生の頃の美貴。
無表情になり心を閉ざす中学生の美貴。
美貴の成長を感じ、仏壇の母親に報告することを欠かさなかった詩織さん。
自分達の間にも子供を作ろうと提案した父親の優しさ。
愛される喜びを知り、授かった命の重みと愛しさを知り、充実した人生。
だけど皮肉なことに美貴の心はどんどん離れていく。
まるで自分が美貴のお母さんの人生を乗っ取った悪者のように感じる。
偶然、目にした【母親でもないくせに】という美貴の日記帳の言葉に、それまでの努力がガラガラと音を立てて崩れて行った。
お母さんに愛されていなかった。
お母さんは抱き締めてくれなかった。
お母さんはいつだって病気の兄のことで頭がいっぱい。
お母さんはいつだって死んだ兄のことで心に悲しみを詰め込んで、
私という存在はどうでも良かった。
私なんか生まれなくても良かった。
私なんか生まれたって良いことひとつもなかった。
私なんかよりバカな男を愛し、私を家から追い出したお母さん。
私は彼女にとって最初から最後まで邪魔な存在だったに違いない。
誰でもいい。
誰かに喜んで欲しかった。
一緒に笑って楽しく生きてみたかった。
私なんかが欲を出したせいで、美貴ちゃんや正志さんは不幸になった。
約束を果たす自信がない。
私はもうすべてを投げ出して死にたい。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
この世界から、消えたい。
誰の記憶からも消えてしまいたい!!
そして場面が変わった。
今、目の前にいるのは。
炎の中で断末魔のような叫び声を上げている詩織さん―――
地獄の業火で焼かれても仕方がない、という思いが
胸に侵入してきた。
燃え盛る炎の中に手を伸ばして、彼女の顔にそっと触れた。
苦し気な表情が、炎が、みるみるうちに消えていく―――
「その罪の意識が、あなた自身を滅ぼしたんですね?」
「私は………まだ、本当は死にたくなんて、無かったのよ!!」
詩織さんは怒りを露わにした。
後悔と無念がビリビリと伝わってくる。
「あなたはただ、祈り続けていれば良かったんだ……。
自分に罪があるなんて思わないで、美貴の反抗期を受け流してあげていれば、こんな悲劇は起きなかった」
詩織さんは声を上げて泣いていた。
まるで幼子のように、天を仰ぎ見ながら、大声を張り上げながら、号泣している。
なんとも哀れだった。
他に言葉が思いつかない。
私も胸が締め上げられて苦しくなる。
一緒に泣き出してしまいそうだ。
「私はもう二度と……
あの可愛い娘たちを……
抱きしめてあげられないのね……
りなぁぁぁぁ
あんなぁぁぁぁぁぁ」
初めて赤ん坊を抱いた時の柔らかさと
こちらがまるで包み込まれるような幸福感を感じる。
これは、詩織さんの記憶なのだろう。
私はやっとの思いで声を絞り出した。
「そうだよ。
あなたの一生は、もう終わったんだ。
あなたはこれから逝くべきところに行かないと。
それがあなたに残されたただ一つの正しい道」
「無理だわ!私には、その資格がないもの!!」
詩織さんはかなり取り乱している。
こんなに哀れな幽霊を私は知らない。
「……どうして? 資格がないヤツなんていないよ!!
あなたは精いっぱい生きてたじゃないか!
酷い目に遭っても、辛いことがあっても、誰のせいにもしないで、
自分を活かすために看護師になって!!
美貴に出会って、家族になって、幸せな時間だって沢山味わった筈だろ!!?」
「私があの時、なにもしなかったせいで、
あの人を……美月さんを死なせてしまった。
私があの人の分も幸せになろうとしたことで、
美貴ちゃんに深い傷を負わせてしまったのよ!!
私があの子を差し置いて幸せになんかなったら、
あの人に顔向けできないわ!!」
私は取り乱す詩織さんの肩に手を置いて、一点に集中した。
目を見ようとするが、詩織さんの目は落ち着かず震えていた。
右目と左目がそれぞれ勝手に動いている。
―――異様だ。
不吉な予感がする。
この人はまだ魔に獲り憑かれているのだ。
なんとか祓ってあげなくては!!
「美貴が傷付くのは、美貴の問題だ!
あなたは何でも自分に責任があると思っていたようだけど、
それはただの勘違いだよ!
何か正当性のありそうな意味を自分で与えてる。
自己満足するために。
良い?
自分より立場の弱い人間の自由や能力を疑うってことは、
その子の存在意義や能力を根こそぎ奪うってことだ。
あなたは自分を責める材料として、
ただ美貴を振り回しただけに過ぎない。
信じてあげたら良かったんだ!!
あなた自身を信じてないから、子供のことも信じられなくなった!!
美貴には美貴の悩みどころがある。
成長する過程があるし、そのプロセスを積み上げていく権利がある。
あいつを舐めてもらっちゃ困るんだよ。
下の妹達にしたってそうさ。
自分と同じように苦しむことを恐れて、親が子供に過保護になるのは、子供の潜在能力を否定することにしかならないんだ。
悪気ないんだろうけど、迷惑なんだよ!
でも、それが親心だって言うなら、それはそれで在りなんだって思う。
子供は親の加護を振り払っていずれは自立していくんだ。
まだ親元で安穏と暮らしている間ぐらい、親の心配性に付き合っても良い。
それぐらいは許容範囲さ。
美貴はバカじゃない。
美貴は勘が良い。
美貴は底なしのお人好しで、あなたを尊敬していたんだ。
それだけは覚えておいて。
自分の幸せのために、あなたが不幸で良いだなんて思うわけない。
そんな腹黒い奴じゃないよ。
美貴はただ、自分の将来の展望が見えなくて苛立ってたんだ。
その程度のことは、
この世の中学生なら多かれ少なかれ覚えがあるってもんじゃないの?
私だって同じさ。
進路決めるって初めてのことだ。
初めてなりに緊張ぐらいするってことさ。
それを、なんでまたこんな大袈裟に騒ぎ立てちゃったんだろうね?
あなたは結局、自分の人生を振り返って、闇の部分だけを見た。
闇に飲まれ、闇に支配された。
こんなに不幸なことないっての!
憐れむなら、美貴じゃなく、美貴のお母さんでもなく、あなた自身を憐れみな。
そして全ての罪の意識をここで吐き出して天国へ行って下さい!」
詩織さんは愕然とした表情を浮かべたかと思うと、私をきつく睨み付けてくる。
まるで鬼の形相だ。
私は身の危険を感じて、身構えた。




