40話 ネコ科動物と温泉
トリエステ大山脈まで飛んだ俺達は、山の七合目付近へ、降り立った。
降りた場所は拓けており、地面からは、白い煙が上がっていた。
――キリマンジャロの七合目だと、標高4000メートル以上か。
前世の地球には、高木が育つ限界標高として、森林限界というものがあった。
キリマンジャロの森林限界は3000メートル付近で、それより高い場所に、高木は生えない。
また植生の限界は4400メートル付近で、それより高い場所に草は生えない。
周囲は、岩石と砂だらけで、まばらな草と、限られた低木しか見当たらない。
「ここが目的地だ」
『見事に何も無いな』
「草を食べる動物も、その動物を食べる肉食獣も居ない。おかげで安全だ」
『なるほど、それは否定の余地が無い』
草が無ければ草食動物が棲まず、それを餌とする肉食動物も棲まない。
俺達は大人1人、子供1人、大型犬サイズのライオン2頭の少人数だが、誰も来ない場所であれば、枕を高くして眠れるだろう。
「荷物を出してくれ。今夜は、ここで野営になる」
低木にヒッポグリフを繋いだグンターは、荷物を出すように求めた。
俺は荷物を出しながら空を見渡して、雲が俺達よりも下にある事を確認した。
山頂に雪が積もっており、上に行く雲もあるだろうが、雨は少なそうだ。
野営すべく、テントを張り始めたグンターの傍で、辺りを見渡したヨハナが疑問を口にした。
「お父さん、あの白い煙は何」
「あれは、大地から吹き出す火の力だ」
「へえ、そうなんだ」
トリエステ大山脈は活火山らしく、煙が噴き上がっている。
地下水が地熱で温められて、水蒸気となって地上に吹き上がっているわけだ。
その間欠泉が、山に積もった雪ないし雪解け水と混ざったのか、天然の温泉を生み出していた。
俺はトコトコと歩いて行き、天然温泉の上に前脚を出してみた。
『レオン、危ないよ』
リオから注意された俺は、前脚を引っ込めた。
言われてみれば、そのとおりである。
日本の温泉には管理者が居るが、トリエステ大山脈には、管理者がいない。
日本の感覚で手を入れると、火傷しかねない。
『グンター、これは熱いのか』
「ちゃんと人間が入れる温度になる。火の精霊達が、温度を調整するからな」
『どうして火の精霊が、温度を調整するんだ』
「契約候補者に火属性の魔素を染み込ませて、契約を補助するのだと伝えられる。火の精霊は、基本的には契約したいからな」
間欠泉と雪解け水が混ざったと思わしき、トリエステ大山脈の天然温泉。
そこには火属性の魔素が大量に含まれ、火の精霊達との契約を補助するらしい。
そして温度調整は、わざわざ火精霊が行ってくれる。
『精霊は、昇級していくために、契約が必要だったな。このように精霊と契約し易くなる土地は、ほかにも幾つか有るのか?』
「もちろん有る」
このように契約し易い場所は、各地にあるらしい。
わざわざ作ってくれるとは、至れり尽くせりである。
精霊側は、よほど契約したいらしい。
『リオ、この温泉は、火の精霊が温度の管理をするそうだ。だから大丈夫だろう』
俺は温泉の上に前脚を出して、湯気から温度を測ってみた。
湯気に触れた限りでは、あまり熱い感じはしない。
俺は一瞬だけ湯に触れて、次いでペシペシと触れ、やがて前脚を突っ込んだ。
「ガォォ」
少し熱めに感じられたが、温泉としてなかなか良い温度である。
「レオン、大丈夫?」
『大丈夫だ。ヨハナ、この湯は温かいな』
「良かった。それじゃあ、一緒に入ろうね」
『ガオォ?』
「レオンも、契約するんだよね?」
ヨハナに首を傾げられた俺は、自分が生後半年のライオンだと思い出した。
前世では、生後半年の乳児が1人で風呂に入るなど、有り得ないことだった。
そもそもヨハナは、飼い猫を風呂に入れる感覚なのかもしれない。
乳児の入浴と、ペットの入浴。そのどちらであろうとも、一緒に入るだろう。
『ちなみに猫は、風呂が嫌いなのだが』
「ちゃんと入らないと、ダメだよ」
抵抗を試みた後、俺は今世で初めて、風呂に入れられることになってしまった。
◇◇◇◇◇◇
日が沈んだ温泉の水面を仄かに照らすのは、天上に輝く月明かりと星々の光。
前世では、写真ですら見たことがないほど、星々が明るく輝いている。
それらの光によって、重厚感溢れる岩湯と、立ち上がる白い湯気が、薄く照らし出されていた。
温泉に身を浸すと、力が流れ込む感覚があり、同時に身体を温めてくれた。
周囲は静かで、ほかの動物の鳴き声は聞こえず、滾々と湧き出る水の音が響く。
前世であれば、極上の環境だっただろう。
生憎と今世の俺達は、人間ではなく、ネコ科のライオンだが。
『出たい、出たい、出たい』
『リオ、お前もか』
猫やサバンナのライオンには、水浴びの習慣が無い。
猫は犬に比べて、毛の脂分が少なくて、水分を弾き難く、毛が濡れ易い。
水に濡れると乾き難く、身体の熱を奪い、下手をすると命に関わる。
頭で入浴が必要だと分かっても、「これは嫌だ」と、本能的な忌避感を抱く。
つまり現状は、物凄く嫌である。
「レオン、リオ、長く浸かっていたほうが、魔素が身体に染み込むんだって」
「ガオガオガオッ」
「ガォオッ、ガオォツ」
大山脈の天然温泉には、駄々っ子2頭と、それを宥める10歳児のお姉ちゃんの姿があった。
――やはり妹だ。妹なら、出してくれるっ。
火属性の魔素がどうだとかは、まったく頭に入ってこない。
とにかく温泉から出て、沢山の布で身体を拭いてもらい、水気を取り払いたい。
そして前世の地球人達に伝える機会があるのなら、猫の風呂嫌いは好き嫌いの問題ではなくて、生存本能に基づく正常な自己防衛なのだと訴えたい。
銀髪の10歳女児との婚約とかはどうでも良いから、とにかく出してほしい。
ヨハナが14歳の銀髪美少女とかでも、やはりダメだ。
前世の俺なら生唾をゴクリと呑んだかもしれないが、今世の俺はライオンだ。
今の俺は、とにかく温泉から出たいのである。
『リオ、よく我慢できるな』
『無理、理性で、耐えてる』
リオの口から理性という単語が出てきた時点で、ほぼ前世持ちが確定である。
そんな事を俺に悟らせるほど、リオにも余裕はなかった。
『ヨハナ、どうして俺は、温泉に入っているんだ』
「だから火属性を上げて、良い火精霊と契約するためだよ。レオンも強い精霊のほうが、良いよね」
「ガオガォ」
ヨハナの主張に対しては、反論の余地が無い。
俺は少しでも耐えるべく、リオに話し掛けて、気を逸らすことにした。
『リオ、精霊と契約しても、群れでは使うなよ』
『どうして』
『群れで使うと便利に思われて、群れから出られなくなるかもしれない』
『レオンは、そこまで一緒に来て欲しいんだね』
『そういうことだ』
『どうしようかなぁ』
リオの駆け引きは、今に始まったことではない。
今回は温泉から意識を逸らせるので、わざとやっている部分もあるのだろう。
俺も意図を察して、リオの駆け引きに乗った。
『リオが群れに残った場合、いずれ別のオスライオンが来て、父達を追い出して群れを乗っ取るだろう』
『それで?』
『エムイーやギーアより乱暴なのが来て、あいつらより好き放題にするぞ。話なんて聞かないし、狩った獲物は奪うし、スイギュウも分けてくれない』
『……うぐっ』
その光景を想像したのか、リオは嫌そうな表情を浮かべた。
『リオが火の精霊と契約して、オスを追い払えても、オス無しだと群れに子供が生まれない。リオが長生きしたら、最後に一人かもしれない』
『うぐぐ』
俺達はガオガオと言い合いながら、魔素が染み込むまで、温泉で粘った。


























